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第84話 机上の戦

 二日目の審査は筆記だった。


 候補者は長机に並び、戦術の問いに答えを書く。窓から差す朝の光が、磨かれた机の列を照らしていた。問いの多くが、貴族が幼少から学ぶ兵学書からの出題だった。古典の会戦、名将の采配、陣形の名と用法。ザインは紙に目を落とし、内心で苦笑した。書物の名など一つも知らない。前世にも今生にも、そんな書を開いたことはなかった。


 隣の席でレイフが流れるように筆を走らせていた。古い会戦の名を諳んじ、陣形の図を澱みなく描いていく。羽根ペンが紙を擦る音が、いかにも自信ありげに響いた。机上では、彼らに分があった。家に伝わる兵学書を、彼らは子守唄のように覚えて育ったのだ。


 ザインは知らぬ問いを飛ばし、答えられる問いだけを拾った。「敵が街道の井戸を汚した。どう動くか」――その種の、現場の問いだった。ザインの筆が初めて動いた。井戸を避ける迂回路、水の確保、行軍の刻限。前線で実際にやってきたことを、そのまま書いた。これは書物ではなく、自分の足で覚えた知だった。


 筆記のあと、口頭の審問が続いた。委員の前に一人ずつ立ち、問いに答える。レイフは古典を引いて雄弁に語った。委員たちが満足げに頷いた。家の格と学識が、そのまま評価に変わっていくようだった。


 ザインの番が来た。ボードが、待ち構えたように問うた。


「では歩兵に問おう。三百年前のカルダ会戦で、ゼン将軍が用いた斜行陣の名を述べよ」


 知らない。ザインは正直に答えた。


「存じません」


 ボードが薄く笑った。狙い通りという顔だった。


「兵学の初歩だ。それも知らぬ者が、士官を志すとは」


「斜行陣の名は存じません」


 ザインは静かに続けた。慌てなかった。名は知らずとも、戦の理なら血で覚えている。


「ですが、その陣がなぜ斜めに組まれたかは、見当がつきます。一方の翼に兵を厚く寄せ、弱い翼を後ろへ退く。敵の正面とずれて当たり、厚い翼で先に崩す。名を覚えずとも、戦場で同じことを、私は何度もやってきました」


 ボードの笑みが固まった。委員長のローレンが、興味深げに身を乗り出した。


「ほう。では問いを変えよう。お前なら、その斜行陣をどう破る」


 ザインは少し考えた。これは書物の問いではない。盤面の問いだ。ならば答えられる。前線で幾度も解いてきた問いと同じだった。


「厚い翼を、まともに受けません。退きながら誘い、伸びきらせます。敵の厚い翼が前へ出れば、薄い翼との間に隙ができる。その継ぎ目を突きます。陣が斜めである限り、必ず繋ぎ目に弱みが生まれます。地形を選べるなら、その繋ぎ目を狭い場所へ誘い込みます。狭ければ、敵は数の利を活かせません」


 広間が静まった。レイフの口元から、笑みが消えていた。


 ローレンが顎を撫でた。白い眉の下の目が、初めてザインを正面から見据えた。


「……名は知らぬが、理は分かっている、か。面白い。書を読んだ者は名を覚える。だが戦を読んだ者は、理そのものを掴む」


「軍曹殿は本を読まずに、戦そのものを読んでこられたのですね」


 末席からユリアンが小さく呟いた。咎める者はいなかった。広間の空気が、わずかに変わり始めていた。


 ボードだけが苦々しい顔で口を結んでいた。机上の戦で平民を沈める目算が、外れたのだ。書物の問いで詰めたつもりが、理の答えで返された。


 審査が終わり、候補者は広間を出た。レイフがザインの横を通り過ぎざま、低く言った。


「次は図上の演習だ。盤の上で兵を動かす。そこでは口先の理屈は通じん。本物の采配を見せてもらうぞ、歩兵」


 ザインは静かに頷いた。盤の上で兵を動かす――それこそ望むところだった。前線でやってきたことに、最も近い。書物でも口先でもない。読みそのものが問われる場だった。


 その夜、ザインは寝床で天井を見上げた。書物の名を知らぬという弱みは、確かに大きい。だが理を掴んでいれば、名は後から覚えればいい。逆に名だけ覚えて理を掴まぬ者は、盤が一手ずれただけで崩れる。前線で何人も見てきた。教本通りに兵を並べ、教本にない事態に潰れていく士官たちを。自分はその逆を行く。名のない道を、理だけで進む。


 高窓の外、二つの月が夕闇に浮かび始めていた。大小ふたつの蒼い光が、書物の名を知らぬ男の背を、いつものように照らしている。


 ザインは拳を握った。明日、盤の上で証を立てる。家柄でも書物でもなく、読みそのもので。


 机を離れた戦が、次に待っていた。

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