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第83話 家柄の壁

 翌朝、士官選抜の初日が始まった。


 候補者は練兵館の広間に並ばされた。高い天井に古い帝国軍旗が垂れ、壁には歴代の名将の肖像が掛かっている。どれも由緒ある家の出だった。広間そのものが、家柄を誇る場として作られていた。正面に審査委員の席が据えられている。中央に白髪の老将、左右に数名の士官。その一角に、肉付きのよい男が座っていた。鋭い目で候補者を舐めるように見ている。ボードだった。


 老将が口を開いた。審査委員長のローレン大佐だった。声は静かだが、長く戦場を踏んだ者の重みがあった。


「これより、各候補の経歴を読み上げる。家名、家格、これまでの軍歴を述べよ」


 候補が一人ずつ進み出た。どの口からも、由緒ある家名と古い軍功が並んだ。広間に貴族の名が連なっていく。先祖が築いた戦功を、子孫がそらんじていく。やがてザインの番が来た。


「ザイン。家名は……ありません。徴募歩兵から軍曹までです」


 広間がざわめいた。家名のない者が、この場に立つことそのものが異例だった。貴族の候補たちが顔を見合わせ、含み笑いを交わした。


 ボードが、待っていたように身を乗り出した。


「家名なし、か。委員長、これは何かの間違いでは。ここは帝国の士官を選ぶ場。馬の骨を並べる場ではない」


 露骨な侮蔑だった。広間の貴族たちが含み笑いを漏らした。ザインは表情を変えなかった。前線で幾度も死を見てきた目には、この程度の嘲りは矢のうちにも入らなかった。


「ガレウス将軍の推薦状があります」


「推薦状などいくらでも書ける」


 ボードは紙片をひらひらと振った。


「問題は中身だ。この者は山岳で糧を切らし、無謀に敵地へ踏み込んだと聞く。糧の差配を誤ったのは、この者自身の落ち度ではないのか」


 糧を絞ったのはボード自身だ。それを承知で、罪をザインに着せようとしている。盤の外から手を出すとは、こういうことかとザインは思った。ザインは静かに口を開いた。


「糧は、後方で絞られました。前線の落ち度ではありません」


「証はあるか」


 ボードの目が光った。証はない。後方の差配は、後方の者にしか分からない。ザインは答えに詰まる――かに見えた。だが彼は別の答えを返した。正面から証を争っても勝てない。ならば結果という、動かせぬ事実で押す。


「証はありません。ですが結果はあります。糧を断たれた隊は、一人も欠けずに山を越え、敵の山岳隊を降らせました。落ち度のある指揮で、それができるとお考えですか」


 広間が静まった。ボードの頬が、わずかに強張った。


 審査委員長のローレンが、初めて口を挟んだ。


「……一人も欠けず、か。それは事実か」


「は。捕らえた敵には水と食を分け、後方へ送りました。記録に残っているはずです」


 ローレンは手元の書類をめくり、低く唸った。羊皮紙をめくる乾いた音だけが、広間に響いた。


「記録にある。降伏した敵将の証言も添えられている。帝国の軍曹は渇いた我らに水を分けた、とな」


 ボードが何か言いかけた。だがローレンが手を挙げてそれを制した。


「家名は測りの一つに過ぎん。軍歴もまた測りだ。ザイン、お前の審査は続ける。家名なしの候補がどこまでやれるか、見せてもらおう」


 ザインは深く頭を下げた。第一の壁を、ひとまず越えた。だが越えたのは一枚目に過ぎない。ボードの目が、まだ自分を捉えているのを背中で感じた。


 席に戻る途中、レイフ・ハルゲンが冷たく囁いた。


「運がよかったな、歩兵。だが審査は始まったばかりだ。机の上では、お前の血の経験など、何の役にも立たんぞ」


 ザインは答えなかった。広間の高窓から、薄く二つの月が見えた。昼の空にうっすらと残る、大小ふたつの蒼い影。前線でも後方でも、それだけは変わらず頭上にあった。家柄を誇るこの広間の上にも、月は等しくかかっていた。


 広間の隅で、ユリアンがそっと近づいてきた。


「見事だった。証がないと突かれて、結果で押し返すとはね。ボードは顔を真っ赤にしていたよ」


「まだ何も終わっていない」


 ザインは小声で返した。


「あの男は委員だ。審査の点を握っている。正面で潰せぬと知れば、点で沈めにかかる。気を抜けん」


「……君は本当に、後方の戦も読むんだな」


 ユリアンが感心したように呟いた。ザインは答えず、ただ正面の委員席を見ていた。ボードの肉付きのよい手が、羽根ペンを神経質に弄んでいた。


 ザインは席につき、次の審査を待った。家柄の壁は、まだ何枚も先に立ちはだかっている。だが越えられぬ壁ではない。山で学んだことだった。どんな険しい地形にも、必ず読みの通る道がある。


 机上の戦が、いよいよ始まろうとしていた。

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