第82話 後方の門
三日の行程を経てザインは後方の駐屯都市レーンへ入った。
城壁は高く石畳は磨かれ、前線の泥とは別の世界だった。兵舎は整い、行き交う兵は揃いの軍装を身につけている。血の匂いの代わりに香木の匂いがした。荷を運ぶ商人が笑い、酒場からは弦の音が漏れている。ここでは戦は遠い噂でしかないのだと、ザインは歩きながら思った。前線の連中が泥の中で守っているのは、こういう日常なのだ。
ザインは色褪せた外套のまま、その整った街路を歩いた。すれ違う者の目が、自分の擦り切れた装いを値踏みしていくのが分かった。山で雨に打たれ、岩に擦れた外套だ。後方の磨かれた石畳の上では、それがひどく場違いに見えた。
士官選抜の場は街の北、古い練兵館だった。集まった候補は二十数名。その大半が仕立ての良い外套を羽織り腰に飾りの多い剣を下げていた。貴族の子弟だ。彼らは輪を作り談笑し、ザインのような者には目もくれなかった。剣は美しく磨かれていたが、刃こぼれひとつ無いその剣で人を斬ったことがあるのか、ザインは内心で疑った。
ひとりの青年がザインの前に立った。金の縁取りの外套に、整った顔立ちをしている。
「見ない顔だ。どこの家の者だ」
「ザイン。家はない。前線の歩兵だ」
青年の眉が、わずかに上がった。
「歩兵。徴募の平民が、なぜここにいる」
「将軍の推薦だ」
周りの貴族たちが小さく笑った。青年は鼻で笑いはしなかった。ただ冷ややかにザインを眺めた。
「レイフ・ハルゲンだ。覚えておけ。ここは血と泥で名を上げる場ではない。家の格と、学んだ作法で測られる場だ。場違いだぞ、歩兵」
レイフは外套を翻して去った。ザインは何も言い返さなかった。言葉で勝つ場ではないと分かっていた。後方の戦は、まだ始まってもいない。今は敵の顔ぶれを覚える時だった。
夕刻、ザインは練兵館の隅で荷を解いた。固い寝床は、むしろ前線より上等だった。隣に痩せた青年が腰を下ろした。地味な外套の、貴族にしては質素な身なりだった。
「気にするな。レイフはああいう男だ」
青年は柔らかく笑った。
「ユリアン・セルヴァス。末席の三男でね。家の格は低い。だから君の気持ちは、少しだけ分かる」
「ザインだ」
「知っている。山で糧を断たれながら敵を降らせた軍曹だろう。後方でも噂になっている」
ザインは少し驚いた。前線の話が、こんな所まで届いているとは思わなかった。後方の人間にとって、前線の戦は酒の肴の噂話に過ぎないのかもしれない。
「噂が、味方とは限らんがな」
「賢いな」
ユリアンは声をひそめた。広間の喧噪に紛れるよう、顔を近づけてきた。
「審査の委員に、ボードという男がいる。ヴェイル将軍の派の男だ。あの男は、平民が士官になるのを何より嫌う。君の推薦を潰す気で来ている。気をつけろ」
ザインの目が、わずかに細くなった。山で糧を絞った、あの後方の男だ。糧の差配を握り、前線のザインを干上がらせようとした。後方の戦場にも、同じ敵が先回りして待ち構えていた。
「教えてくれて助かる。なぜ俺に味方する?」
「家の格で人を測る流儀に、僕も飽きているからさ」
ユリアンは肩をすくめた。
「それに、君の戦い方には興味がある。机の上の戦術しか知らない連中とは、何かが違う。家名のない男がどこまでやれるのか、見届けたい」
二人は短く言葉を交わし、それぞれの寝床へついた。ザインはこの痩せた青年を、まだ完全には信じなかった。後方では誰もが顔を隠す。だが少なくとも、敵の名をひとつ教えてくれたのは確かだった。
寝床に横たわっても、しばらく眠れなかった。前線では疲れがそのまま眠りに変わった。だがここでは頭の芯が冴えていた。明日からの審査の手順、委員たちの顔、レイフの剣の飾り。すべてが盤面の駒のように頭の中で並んでいく。後方の戦は、矢の飛ぶ前に勝負がついていることもある。ザインはそれを、前線の勘で察していた。気を抜けば、笑顔のうちに足を掬われる。
窓の外、二つの月が磨かれた石畳を照らしていた。大小ふたつの蒼い光が、前線と変わらず後方の空にもかかっている。違うのは、その下にいる人間の顔つきだけだった。前線の兵の顔には命がかかっていた。ここの顔には、別の何かがかかっていた。
ザインは天井を見上げ、明日からの戦を頭の中で組み立てた。盤面はまだ見えない。だが敵の名は、もう分かっていた。
針の穴をくぐる戦が、始まろうとしていた。




