第81話 召還
山を制してひと月が過ぎた頃、一通の命令書が前線のザインのもとへ届いた。
使者は後方から早馬で来た若い伝令だった。泥のない真新しい外套を着て、前線の天幕の汚れを物珍しげに眺めていた。封蝋には帝国軍本営の紋が押されている。前線の分隊にこの紋が届くこと自体が、まずなかった。
封を解いたのはドレクだった。古びた天幕の中で彼は紙面に目を走らせ低く唸った。
「来たか。後方への召還だ。ザイン、お前を士官選抜の場へ送るとよ」
「……士官選抜」
ザインは紙を受け取った。帝国軍が年に一度だけ開く、士官候補の審査だった。名を連ねる多くは貴族の子弟だ。平民が紛れ込む隙は針の穴ほどしかない。その針の穴へガレウス将軍の推薦がザインをねじ込んだのだ。
紙の端には将軍の太い署名があった。ザインはその文字をしばらく見つめた。一兵卒として徴募されたあの泥の日から、ここまで上り詰めた証が、この一枚の紙に集まっていた。だが胸に高ぶりはなかった。あるのは静かな警戒だけだった。
「将軍は本気だぞ」
ドレクは腕を組んだ。
「お前をただの軍曹で終わらせる気はない。だが後方は前線とは別の戦場だ。槍は通じん。通じるのは家柄と顔色と古い流儀だ。覚悟しておけ」
「は」
ザインは短く答えた。胸の内ではもう別の戦が始まる音を聞いていた。前線の敵は槍と矢で来る。後方の敵は紙と言葉で来る。どちらが厄介かは、まだ分からなかった。
天幕を出ると隊の連中が待っていた。話はとうに伝わっている。山を越えて以来、誰も欠けていない顔ぶれだった。ガロが真っ先に口を開いた。
「おい軍曹。後方でめかし込んだ坊ちゃん共を相手にするんだろ。お前、礼の作法なんて知ってんのか」
「知らん」
「だめだこりゃ」
ガロは大げさに天を仰いだ。バルガが古参の顔で笑う。
「作法なんざいらん。お前は前線で証を立ててきた男だ。後方の奴らが机で覚えたものを、お前は血の中で覚えた。胸を張れ」
「ありがとう、バルガ」
ティムが心配そうに寄ってきた。山岳戦で「左の角」を任され、すっかり中堅の顔になった若兵だ。
「軍曹殿。行っちまうんですか。俺たちは」
「すぐ戻る」
ザインはティムの肩を叩いた。
「士官になって戻る。そうすればお前たちをもっと生かせる。今より大きな盤面でな。だから留守を頼む。左の角は、お前だ」
ティムの目に誇りと不安が同時に揺れた。ザインはその目を見て、置いていく重さをあらためて感じた。自分が後方で戦う間も、この連中は前線で槍を握り続ける。一日でも早く戻らねばならない。
夜、ザインは岩場でひとり荷をまとめた。背後に足音が近づく。コルネリアだった。山を越える策で霧を読んだ、あの攻撃魔法使いだ。
「行くのね」
「ああ」
彼女は隣に腰を下ろした。しばらく二人とも黙っていた。山風が二人の間を抜けていく。焚き火の遠い光が、痩せた頬を淡く照らしていた。
「後方は、ここより安全よ」
コルネリアは膝を抱えた。
「矢も飛ばない。槍も来ない。なのにあなたが行くのが、なぜか怖い」
「俺もだ」
ザインは正直に言った。
「前線の敵は読める。動きには理由がある。だが後方の敵は笑いながら背を刺す。理由も顔も隠す。読みにくい相手だ」
「……死なないで」
コルネリアの声は小さかった。戦場では雄弁な女がこういう時だけ言葉を失くす。ザインはその手にそっと触れた。指先は冷えていた。
「死なん。約束しただろう。セドの小鳥を二人で届ける。それまでは何があっても倒れん」
ザインは懐から木彫りの小鳥を取り出した。戦死したセドの形見だ。妹へ届けると誓った、小さな約束の証だった。コルネリアはそれを見て、握った手に力を込めた。
「待ってる。だから、必ず戻って」
コルネリアは小さく頷いた。握った手はもう離れなかった。
頭上に二つの月が山の稜線にかかっていた。大小ふたつの蒼い光が、前線を去る男とそれを見送る女を静かに照らしている。前線でも後方でも、この月だけは同じ空にかかるのだと、ザインはふと思った。
翌朝ザインは後方へ発った。隊の連中が山道の端まで見送った。振り返るとガロが大きく手を振っていた。その向こうにコルネリアが立っていた。動かず、ただこちらを見ていた。
ザインは前へ向き直った。槍の通じぬ戦場が、待っていた。




