第80話 山を制す
山の戦は、ザインの隊の勝利で終わった。
水を断たれた王国の山岳隊は谷から退き、帝国は険しい山道を確保した。糧を絞られ、三方を囲まれてなお、ザインの隊は一人も欠けることなく山を越えた。捕らえた敵兵には水と食を分け、後方へ送った。降った若い将は、去り際にザインへ深く頭を下げていった。
数日後、後方からガレウス将軍が山道を登ってきた。痩せたザインの隊を見渡し、将軍は太い眉を寄せた。
「聞いたぞ、ザイン。糧の差配が、お前の戦線にだけ回らなかったそうだな」
「は」
ザインは余計なことを言わなかった。だが将軍は、すべてを察していた。
「ボードの仕業だ。後方で糧を握り、お前を山で潰す気だった。だがお前は、糧なしで山を抜け、敵の山岳隊を降らせた。あの男の思惑は、見事に裏返ったわけだ」
将軍は豪快に笑い、それから声を低めた。
「いいか、ザイン。お前を妬む者は、これからも後ろから糸を引く。武功を上げるほど、その手は増える。だが今日のように、その手ごと盤面に呑み込んで勝て。それができる将は、そう多くない」
「肝に銘じます」
ガロが横から口を挟んだ。
「将軍。うちの軍曹は、敵より味方の後ろの方を、よっぽど警戒してますよ」
その軽口に、将軍は声を上げて笑った。痩せた兵たちの顔にも久しぶりに笑みが戻った。
将軍が去り際、ザインの肩を強く叩いた。
「ザイン。お前はもう、ただ分隊を率いる器ではない。糧を断たれても隊を生かし、地形を逆しまにして勝つ。それは小隊長の働きだ。いや、それ以上だ。近く、士官への推薦を正式に上げる。覚悟しておけ」
ザインは深く頭を下げた。一兵卒として徴募されたあの日から、ここまで来た。だが胸に高ぶりはなかった。守れなかったセドの顔が今も胸の奥にあった。
将軍が山道を下っていったあと、ザインはひとり岩の上に立ち、越えてきた谷を振り返った。糧を断たれ三方を囲まれ岩を落とされた道。そのすべてを隊は一人も欠けずに抜けた。山に入る前に誓ったことが、ひとつだけ守れた。誰も死なせない。その小さな誓いが士官への推薦よりもザインの胸を満たしていた。
懐の小鳥に、そっと触れた。セドの分まで勝て。ヴァレクの遺した言葉が谷を渡る風に重なって聞こえた。背負って潰されず前へ。ザインはその言葉をまた一段深く胸に刻んだ。
「将になれ、か」
ザインは低く呟いた。一兵卒として徴募されたあの日、こんな日が来るとは思わなかった。だが高みへ昇るほど守るべき命は増える。失う痛みも増える。それでも昇ると決めたのは、現場で死んでいく兵を一人でも多く生かすためだった。
その夜、隊はささやかな火を囲んだ。
「軍曹殿、士官だってよ。すげえな」
ティムが目を輝かせた。バルガが古参の顔で頷く。
「徴募の頃から見てきたが、ここまで来るとはな。お前は、俺たちの誇りだ」
「俺一人の力じゃない」
ザインは火を見つめた。
「霧を教えたのはコルネリアだ。沢を見つけたのはマルト。陽動を捌いたのはバルガ。坂を押さえたのはガロとティム。皆の働きが、山を制した。士官になっても、それは変わらない」
コルネリアがそっと隣に座った。
「士官になったら、あなたは遠くへ行ってしまう?」
「いや」
ザインは彼女の手を握った。
「どこへ行こうと、お前と約束したことは変わらない。セドの小鳥を、二人で妹に届ける。その約束だけは、何があっても果たす」
コルネリアは小さく頷き、握られた手を握り返した。
頭上に、二つの月が澄んだ山の空にかかっていた。大小ふたつの蒼い光が、火を囲む隊と、欠けることのなかった顔ぶれを、静かに照らしている。
火を囲む顔は痩せていた。だが誰の目にも、山を越えたという確かな手応えが宿っていた。糧を断たれ岩を落とされ三方を囲まれてなお隊は一人も欠けなかった。その事実が何よりの勝利だった。ザインは椀を傾けながら欠けのない顔ぶれを静かに見渡した。
だがその時、マルトが一通の報せを持って駆け込んできた。
「軍曹殿。南の戦線で、王国軍が大きく動いたそうです。率いているのは――名将ロウガ」
ザインの目が、火の向こうで鋭くなった。カランド以来、温存されていた宿敵の名。その影が再び戦野に立ち上がろうとしていた。
「士官への道と、宿敵の影が、同じ時に来たか」
ザインは低く呟いた。山を制した男の前に、次なる、さらに大きな戦が待っていた。




