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第79話 逆しまの坂

 水を求めて下りてくる敵を、ザインは岩陰から見ていた。


 高みの陣を捨て、渇いた兵たちが沢へと群れている。秩序は乱れ、隊形は崩れていた。昨日まで谷を見下ろしていた者が、今は谷底で水を奪い合っている。地形の利は、完全に逆さまになっていた。


「ティム。左の角、用意はいいか」


「いつでも」


 霧の名残の中から、ティムの声が返った。


「マルトの隊も、沢の上に戻ってます。下りた敵の退路、塞げます」


 ザインは盤面を頭の中で組み直した。高みは空いた。敵は谷底に集まり、退路の坂は細い。今、坂を押さえれば、下りた敵は高みへ戻れない。水のない谷に、敵を閉じ込められる。昨日まで自分たちが置かれていた、まさにその立場へ。


「ガロ。主隊で坂を押さえる。殺すな。退き道を断つだけだ。囲んで、降らせる」


「殺すなって、お前らしいな」


 ガロが槍を担いだ。


「まあ、渇いて参ってる相手を皆殺しにするのは、寝覚めが悪いか」


「無駄な血は流さない。降る者は捕らえる。それで山はこちらのものだ」


 ザインは号令を発した。


「かかれ! 坂を押さえろ!」


 主隊が霧を蹴って坂へ駆け上がった。下りた敵が気づいた時には、退き道は帝国の槍が塞いでいた。慌てて坂を駆け上がろうとする敵を、ティムの左の角が横から圧する。マルトの隊が沢の上から矢を見せる。三方から囲まれたのは、今度は敵の方だった。


「逃げ場はない! 槍を捨てよ!」


 ザインの声が谷に響いた。渇き、隊形を崩した敵に、もはや戦う力は残っていなかった。一人が槍を落とした。続いて、また一人。やがて坂の敵は、雪崩を打つように膝をついた。


 血は、ほとんど流れなかった。


 坂を押さえた主隊は、敵を殺さず、ただ退き道を塞ぎ続けた。槍の穂先を揃え壁のように立つ。下りた敵は水に喉を焼かれ隊形を組み直す力もなかった。昨日まで谷を見下ろしていた者が今は谷底で帝国の槍に囲まれている。地形の利はまるごと裏返っていた。


 ザインはその様を岩の上から冷たく眺めた。勝ちはほぼ決まっていた。だがここで猛れば追い詰められた敵が死に物狂いで暴れる。無用な血が流れる。だからわざと逃げ場をひとつだけ残すように見せた。降れば生きられる。その細い光を敵に見せ続けた。


「殺さずに勝つってのは、殺すより難しいな」


 ガロが槍を構えたまま、低く言った。


「ああ。だが、それができてこそ将だ」


 ザインは答えた。


「降った者は、いずれ語る。帝国の軍曹は渇いた敵に水を分けたとな。その噂は次の戦で敵の槍を一本鈍らせる」


 ザインは囲みの中へ歩み入った。敵の指揮官らしき男が、地に膝をついてザインを睨んでいた。山慣れした顔の、まだ若い将だった。


「貴様……どうやって霧を読んだ。あの白の底で、我らの動きを、すべて」


「霧は、お前たちの目も塞ぐ」


 ザインは静かに答えた。


「高みを取った者は、底が見えなくなる。お前は山を知っていた。だが、山が見せなくするものまでは、読まなかった。それだけだ」


 若い将は唇を噛みそれから深く息を吐いて槍を投げ捨てた。


「……見事だ。我が隊は、降る」


 ザインはその肩に手を置いた。


「水を分ける。渇いた兵から、順に飲ませる。捕虜を粗末には扱わない。それが、勝った者の務めだ」


 若い将が、信じられぬという顔でザインを見上げた。敵に水を分ける将など、見たことがなかったのだろう。


 バルガが歩み寄り低く笑った。


「やったな、軍曹。三方を囲まれた谷から、逆に敵を囲んじまった。糧も断たれて、よくここまで」


「皆の働きだ」


 ザインは痩せた隊を見回した。誰一人、欠けていなかった。それが何より嬉しかった。山に入って、まだ一人も失っていない。


 囲まれた敵の中から、また一人槍を捨てた。降る者には誰も手をかけなかった。帝国の兵は穂先を下げ静かに道を空けた。殺し尽くす戦ではない。生かして降らせる戦だった。それを兵たちもいつしか呑み込んでいた。ザインの戦い方が隊の芯まで染み込み始めていた。


 頭上に、二つの月が晴れゆく空に戻ってきた。大小ふたつの蒼い光が、坂に膝をついた敵と、それを囲む帝国の兵を、等しく照らしている。


 ザインは懐の小鳥に、そっと触れた。今日は、誰も死なせなかった。その小さな事実が、胸の重荷を、ほんの少しだけ軽くした。


 だが戦は、まだ終わっていなかった。山の主は退いた。だがその背後で、別の影が動き始めていた。

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