第78話 霧を断つ
夜明け前、谷は乳白色の霧に沈んだ。
十歩先も見えない。岩も、人も、すべてが白い闇に溶けていた。高みの敵からは、谷底はただ一面の雲海にしか見えないはずだ。ザインの読み通りだった。
「行け」
ザインの低い声に、マルトとコルネリアの一隊が霧へ消えた。足音は霧が吸い込んだ。先頭をマルトが導く。崩れの斜面、開けた岩場。霧が薄れる場所で伏せ、濃くなる呼吸を待って抜ける。二日かけて覚えた道を、マルトの足は迷わなかった。
時を同じくして、谷口でバルガの陽動が始まった。
「かかれ! 帝国の兵がここにいるぞ!」
わざと声を上げ、松明を掲げ、岩を打ち鳴らす。霧の向こうの高みで、敵がざわめいた。見張りの目が、いっせいに谷口へ向く。矢が霧へ放たれた。だが白い闇の中、狙いは定まらなかった。バルガは岩陰を巧みに渡り、被害を出さずに敵の注意を引きつけ続けた。
「いいぞ、爺さん。派手にやってくれ」
主隊の前で、ガロが小さく笑った。隣でザインは、北の沢の方角だけを見ていた。
その頃、コルネリアたちは沢の樋に迫っていた。霧の切れ目から、細い木の樋が見えた。陣へ水を送る、敵の命綱。守りはやはり薄い。陽動に兵を取られ、数人が立つだけだった。
「マルト、合図を」
コルネリアが杖を構えた。マルトが小石を投げ、見張りの注意を逸らす。その隙に、コルネリアは息を整えた。塔で教わった、撃つだけの日々。だが今、この焔は人を生かすために放たれる。
「燃えろ」
蒼い焔が霧を裂いた。樋が炎に包まれ、組まれた木が一瞬で崩れ落ちた。水が岩肌へ虚しく流れ落ちていく。敵の命綱が、断たれた。
「退くわよ、急いで!」
焼き終えたコルネリアは、即座に身を翻した。深追いはしない。ザインの言いつけ通りだった。
霧の中の進軍は、息を殺す戦だった。マルトは小石ひとつ落とさぬよう足を運びコルネリアはその背だけを頼りに続いた。視界は白く閉ざされ自分の手の先さえ霞む。だが視界が消えたのは敵も同じだった。高みの矢は白い闇の底へは届かない。霧は弱い側の味方だった。
開けた岩場で、マルトが手を上げて隊を止めた。霧がわずかに薄れる一帯だった。皆が岩に伏せ息を詰める。風が谷を撫で再び白が濃くなる。その呼吸を読みマルトは音もなく立ち上がった。
「今です。一気に」
囁きが霧に溶けた。隊は身を低くして岩場を渡った。誰も振り向かなかった。前を行くマルトの背だけが白の中のただひとつの道しるべだった。樋が近づくほどコルネリアの鼓動は速くなった。だが指先は震えなかった。背にザインの読みがある。その信が彼女の手を据わらせていた。
高みの敵陣が、にわかに乱れた。水を断たれた報せが伝わったのだ。陽動と、樋の炎と、二つの異変が同時に起き、敵将の判断を惑わせた。霧の底で何が起きているのか、高みからは見えなかった。
ザインはその乱れを、霧越しの音だけで読み取った。
「乱れたな。だが、まだ動かない」
ガロが焦れた。
「今だろ。突っ込むなら今だ」
「いや」
ザインは制した。
「今、突けば敵はまだ高みにいる。下りてくるのを待つ。水を求めて、自分から低い谷へ。その時こそ、高みの利は消える。焦るな」
角笛が二度鳴った。バルガの陽動隊が、霧の晴れる前に退いていく。すべてが、ザインの描いた通りに進んでいた。
頭上に、二つの月が霧の上で薄れ始めていた。大小ふたつの蒼い光が、白く沈んだ谷と、その底でじっと時を計る男を、淡く照らしている。
ザインは焦りを抑えて時を計った。今すぐ突けば敵はまだ高みにいる。岩を落とし矢を射かける有利を残したままだ。だが渇きは確実に敵を蝕んでいく。水を断たれた兵は半日と保たず喉の渇きに苛まれる。やがて規律より渇きが勝つ。その瞬間こそ敵が自分の足で高みを捨てる時だった。ザインは霧の向こうの気配だけを頼りに、その潮目をじっと待った。逸る心を読みと忍耐で抑え込みながら。
やがて霧が薄れ始めた頃、高みの敵陣が動いた。渇いた兵たちが水を求めて谷の沢へぞろぞろと下り始めたのだ。
「来た」
ザインの目が光った。
「高みを捨てて、自分から下りてきた。これで山の理は、ひっくり返る」
ザインは槍を握り直した。劣勢を覆す一手は、すでに半ば成っていた。




