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第77話 霧を待つ

 夜明けまで、まだ間があった。


 ザインは霧の濃さを確かめながら、最後の段取りを詰めていた。策は決まった。だが山の戦では、決めた策をそのまま振り回す者から死ぬ。霧の出方、敵の見張りの間、風の向き。そのひとつでも狂えば、組み直さねばならない。前世の教官の声が、耳の奥でよみがえる。計画は崩れる。崩れた後に何をするかが、指揮官の腕だ。


「マルト。沢までの道、もう一度頭の中で辿れ。途中で霧が薄れる場所は」


「二か所あります。崩れの斜面と、開けた岩場。そこだけは、敵に見られる恐れが」


「その二か所は、伏せて待つ。霧が濃くなる呼吸を見て、一気に抜ける。岩を抜けた時と同じだ。間を読んで動く」


 マルトは深くうなずいた。岩を落とされた谷を抜けた時の手応えが、隊の皆の体に残っていた。


 ザインは隊を三つに分けた。マルトとコルネリアを中心とする樋断ちの一隊。バルガが率いる谷口で敵の注意を引く陽動の一隊。そしてティムを軸に、敵の北の守りが崩れた瞬間に突き上げる主隊。それぞれの役を、ザインは一人ずつの目を見て告げた。


「ガロ。お前は俺と来い。主隊の前に立つ」


「おう。お前のそばが、いちばん長生きできそうだからな」


 ガロが軽く笑った。だがその目は据わっていた。


 バルガが地図を覗き込み、低く唸った。


「軍曹。陽動の俺たちが派手にやれば、敵の目は谷口に集まる。だが集まりすぎれば、俺たちが潰される。引き際の合図は」


「角笛、二度。それで全隊、霧が晴れる前に退く。深追いはしない。今日の狙いは、敵を殺すことじゃない。あの高みを、使えなくすることだ」


「水を断って、高みの陣を干上がらせる、か」


「そうだ。樋さえ断てば、敵は高みに留まれない。水を汲みに、自分の足で谷へ下りるしかなくなる。高みの利は、その時消える。そこから先は、こちらの番だ」


 ザインは地図を巻き、痩せた兵たちを見回した。糧を断たれ、三方を囲まれ、誰もが限界に近かった。だが目だけは、まだ死んでいなかった。


「皆、よく堪えてくれた。ボードは後ろで、俺たちが山で朽ちるのを待っている。だが、朽ちてやる気はない。生きて山を越えて、あの男の鼻を明かす。今日が、その始まりだ」


 兵たちが低く応えた。声は痩せていた。だが芯は折れていなかった。


 ザインは隊を回り、一人ずつに役を言い含めた。声を張らず、ただ静かに。お前はここで伏せろ。お前はこの音で動け。お前は退きの合図を聞き逃すな。細かな段取りを噛んで含めるたび兵の目から迷いが薄れていった。何をすべきか分かっている兵は恐れに呑まれない。前世の教官が繰り返した言葉だった。混乱を生むのは敵ではない。己が何をすべきか分からぬことだ。


 ザインは万一の崩れも数え上げた。霧が早く晴れたら。樋を焼く前に気取られたら。陽動が囲まれたら。そのひとつひとつに退きの筋を用意した。策とは進む道だけではない。崩れた時にどう退くか、そこまで含めて初めて策だった。


「軍曹殿は、勝つ手より先に、退く手を考えるんですね」


 マルトが感心したように言った。


「退き道のない策は、ただの自殺だ」


 ザインは低く答えた。


「皆を生かして山を越える。それが勝ちだ。敵を何人倒したかではない」


 コルネリアがそばへ来た。杖を握る手に、力がこもっている。


「樋を焼くのは、私の役目ね。任せて。一度で、確実に」


「ああ。お前の蒼い焔だけが頼りだ。だが無理はするな。焼いたら、すぐ退け」


「分かってる。あなたこそ、無茶しないで」


 二人は短く目を交わした。それだけで、互いの覚悟が伝わった。


 配置を終えた兵たちが、霧の中で息をひそめた。誰も無駄口を叩かなかった。糧を断たれ高みに囲まれてなお、その沈黙には怯えではなく覚悟がにじんでいた。ザインはその気配を背中で感じ取った。隊はもうただ守られるだけの群れではない。一人ひとりが己の役を呑み込み自分の足で立っている。山に入ってからの日々が痩せた兵たちを確かに鍛えていた。ザインはそれを誇りに思った。


 頭上に、二つの月が霧の向こうに滲んでいた。大小ふたつの蒼い光が、白く沈んだ谷の底を、ぼんやりと照らしている。


 ザインは霧の濃さを最後にもう一度確かめ、低く号令を発した。


「総員、配置につけ。夜明けとともに、動く」


 霧の中で、隊が音もなく散っていった。山の主を引きずり下ろす一手が、いま放たれようとしていた。

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