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第76話 岩陰の夜

 その夜、ザインは岩陰に隊の主だった者を集めた。


 小さな火を囲み、地図を広げる。ガロ、バルガ、ティム、マルト、そしてコルネリア。痩せた顔が、火明かりに浮かんでいた。ザインは指で谷の絵をなぞりながら、低い声で語り出した。


「敵は三方の高みを取った。正面と、左右の尾根だ。だが高みを取ったぶん、兵は薄く伸びている。とくに北の沢沿いは手薄だ。あそこに、水の樋が通っている」


「樋を断つんだな」


 バルガが先を読んだ。


「だが、谷から出れば高みの矢に晒される。どうやって、沢まで気取られずに登る」


「霧だ」


 ザインは言った。


「夜明け前、この谷は霧で真っ白になる。高みの敵からは、谷の底がまるで見えなくなる。その霧に紛れて、選り抜きの者が沢まで登り、樋を断つ。同時に、コルネリアの焔で、薄い北の守りを焼き払う」


 マルトが身を乗り出した。


「霧の道なら、俺が先導します。二日、谷の地形は頭に入れました」


「頼む。お前の足と目が、この策の要だ」


 ティムが拳を握った。


「左の角は俺が持ちます。樋を断った後、敵が崩れたところを、一気に突き上げる」


 ザインはうなずいた。かつて手を震わせていた若兵の、迷いのない目だった。


「いい顔になった、ティム」


 マルトが地図の沢筋を指でなぞり、登り口を三つ挙げた。そのうち二つは霧が薄れやすく危うい。残るひとつが細く険しいが霧に守られる筋だった。ザインはその一本に印をつけた。バルガが守りの薄い継ぎ目を見極めガロが突き上げの呼吸を確かめる。一人ずつが己の役を口にし絵が少しずつ固まっていった。


「派手な策じゃねえな」


 ガロが地図を覗いて言った。


「霧に紛れて、水の管を焼く。それだけで山の主が転げ落ちるってのか」


「派手な策ほど、どこかで折れる」


 ザインは静かに答えた。


「細い筋を一本ずつ確かめてつないでいく。地味でいい。地味な策は裏切らない」


 バルガが古参の顔でうなずいた。


「その通りだ。派手な博打で何人も死なせてきた将を、俺は嫌というほど見てきた。お前のやり方は兵が生きて帰る」


 ティムが拳を握った。


「俺、霧の中でも左の角を見失いません」


「お前の声を頼りにする」


 ザインはうなずいた。


 話が固まると、一人また一人と眠りにつき、火のそばにはザインとコルネリアだけが残った。山の夜気は刺すように冷たく、二人は自然と肩を寄せた。


「怖くない?」


 コルネリアが低く尋ねた。


「霧の中で、もし読みが外れたら、皆――」


「怖いさ」


 ザインは火を見つめたまま言った。


「読みは、いつも賭けだ。外れれば、また誰かが死ぬ。セドのように。それが怖くないわけがない」


 ザインは懐から木彫りの小鳥を取り出した。火明かりに、小さな鳥の形が浮かぶ。


「だが、怖いからこそ、考え抜く。一人でも多く、生きて山を越えさせる。それしか、俺にできることはない」


 コルネリアはその小鳥を見つめ、それからそっと手を伸ばした。ザインの手に、自分の手を重ねる。


「一人で背負わないで。私が言ったでしょう」


「ああ。覚えている」


 ザインは彼女の手を握り返した。冷えた指先が、火よりも確かに胸を温めた。山に入ってから、この温もりだけが、ザインの張り詰めた心をほどいた。


「お前がいるから、俺は冷静でいられる」


 ザインは正直に言った。


「塔で撃つことだけを教わった娘が、今は俺の心を支えている。妙なものだな」


 コルネリアは火に照らされた顔を、わずかに赤らめた。だが手は離さなかった。二人はしばらく、何も言わずに火を見ていた。言葉はいらなかった。明日には霧の中の戦が待っている。今夜だけは、ただ温もりを確かめていたかった。


 火が小さく爆ぜた。コルネリアの手はまだザインの手に重ねられたままだった。冷えた指先が少しずつ温んでいく。山に入ってからの張り詰めた日々の中で、この静けさだけが別の時間のように感じられた。ザインは明日の段取りを頭の隅で繰り返しながらも、今この一時だけは戦を忘れていたかった。守りたいものが増えるたび戦は重くなる。だが守りたいものがあるからこそ前へ進める。その矛盾をザインは黙って受け入れていた。


 頭上に、二つの月が岩の稜線にかかっていた。大小ふたつの蒼い光が、肩を寄せる二人と、谷に降り始めた薄い霧を、静かに照らしている。


 夜が更けるにつれ、谷底にゆっくりと白い霧が満ち始めた。ザインはそれを見て、低く呟いた。


「来たな。明日の夜明けだ」


 その目に、静かな闘志が宿っていた。

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