第75話 高きを取る者
二日が過ぎた。
糧は目に見えて減った。一食半の椀がさらに薄くなり、兵の頬がこけ始めた。マルトの集めた木の実と谷の魚が、わずかに腹の足しになる程度だった。ザインは自分の椀を真っ先に薄くした。指揮官が痩せて見せれば、兵は不平を呑む。前世の隊で学んだことだった。
その間も、敵は動いた。
「軍曹殿。尾根の上、敵の数が増えてます」
ティムが息を切らして戻ってきた。
「正面の尾根だけじゃない。両側の高みにも、旗が立ち始めました。俺たちを、谷の底に閉じ込める気です」
ザインは岩棚に上り、周囲を見渡した。ティムの言う通りだった。敵は谷を見下ろす高みを次々と押さえていた。三方を高所に囲まれ、隊は谷底の窪地に押し込められている。動けば見られ、見られれば狙われる。
「うまいな」
ザインは低く呟いた。敵将は山を知っていた。高みを取り、こちらを底に追い込み、糧の尽きるのを待つ。力で攻めず、地形と時で殺す。ザインがやろうとしていることと、同じだった。
「これは、まずいぞ」
バルガが渋い顔で岩を降りてきた。
「相手は山慣れしてる。下手に動けば、三方から矢が降る。かといってこのままじゃ、糧が尽きて自滅だ。後ろからは糧も来ねえ。前にも後ろにも狼がいるってわけだ」
「ああ。普通に戦えば、勝ち目はない」
ザインは正直に言った。隠しても兵は気づく。
「だが、向こうにも泣き所がある。あの細い水の樋だ。高みに陣を布いた敵は、自分の喉を、あの一本の樋に預けている。三方を固めた分、兵は薄く広がっている。守りが厚いところと、薄いところができる」
ガロが眉を寄せた。
「だが、その樋を断ちに行くにも、谷から出れば狙われるんだろ。どうやって近づく」
「そこだ」
ザインは地図に指を走らせた。三方の高みと、北の沢と、谷を流れる風。そのすべてを頭の中で組み合わせていく。劣勢の盤面の中に、ただ一本だけ、勝ち筋の線が引けないかを探った。
その囲みは、じわじわと隊の心を削った。矢の一本が飛んでくるわけではない。だが見られているという感覚が兵の背を絶えず冷やした。高みの旗が風にはためくたび、誰かが身を縮めた。糧は減り退き道は細く頭上には敵。山という土地そのものが味方を締め上げているようだった。
ザインはそれを誰より分かっていた。だからわざと普段通りに歩いた。岩の上に立ち悠然と尾根を見上げ兵に背を見せて回る。指揮官が怯えれば隊はその倍怯える。逆に指揮官が落ち着いていれば兵はそこに寄りかかれる。前世の隊で学んだ、士気というものの理だった。
「軍曹殿は、囲まれても平気な顔だ」
ティムが感心とも呆れともつかぬ声で言った。
「平気じゃない。ただ、怖がる暇があるなら抜け道を探す。それだけだ」
ザインは尾根を見上げたまま答えた。
「囲みには、必ず継ぎ目がある。三方を固めるほど敵は薄く伸びる。完璧な囲みなど山にはない」
その時だった。コルネリアが空を見上げて、ふと言った。
「ねえ、ザイン。この谷、朝になると霧が出るわ。二日とも、夜明け前に真っ白だった」
ザインの動きが止まった。視線が、ゆっくりとコルネリアへ向いた。
「……霧」
頭の中で、ばらばらだった線が、一気につながった。三方の高みを取った敵。底に押し込まれた味方。細い水の樋。そして、夜明け前に谷を満たす霧。それらが、ひとつの絵になった。
「コルネリア。お前は今、戦の流れを変えたかもしれない」
「え?」
コルネリアが目を丸くした。ザインは初めて、この劣勢の中で笑った。
「高みを取った者が勝つ。それが山の理だ。だが、高みを取った者には、見えなくなるものがある。霧の底だ」
ザインの頭の中で、ばらばらの断片が一本の絵に編み上がっていく。高みを取った敵。底に伏せた味方。細い水の樋。そして夜明けの霧。どれも単独では弱い手だった。だが重ね合わせれば敵の有利をそっくり裏返せる。山の理は高きを取る者の味方だ。ならばその理ごと欺いてやる。霧の底は高みからは見えない。見えぬ底でこそ動けばいい。
ザインは地図を巻き、立ち上がった。その背に痩せた兵たちの視線が集まっていた。
「皆、聞け。腹は減っているだろう。だが、もう少しだけ堪えてくれ。三日のうちに、この谷から出る。敵の高みを、逆に使ってやる」
頭上に、二つの月が薄れゆく空にかかっていた。大小ふたつの蒼い光が、三方を囲まれた谷と、その底で笑う男を、静かに照らしている。
劣勢は変わらない。だがザインの目には、もう次の一手の輪郭が、はっきりと見えていた。




