第8話 帰還
砦に戻ったのは日が暮れてからだった。
城門をくぐると、篝火の灯りの中で残っていた兵たちがいっせいに殿の隊列を見た。
全滅も覚悟された殿が、傷を負いながらも全員生きて帰ってきた。その事実が低いざわめきとなって広がっていく。
担架で運ばれる負傷兵。肩を貸し合って歩く者。誰もが泥と血にまみれ、足取りは重い。だが生きていた。
ザインは特に何も言わず、分隊と共に天幕へ向かった。
体は鉛のように重く、頭の芯だけがまだ妙に冴えていた。戦が終わってもすぐには気が抜けない。それもいつか習い性になるのだろうか。
だが噂は足より速かった。
翌朝には砦じゅうが知っていた。隘路の伏兵を読み当て、水路に拠って殿を救った新兵がいる、と。
飯の列に並んでいると、見知らぬ古参兵がザインを横目で見て囁き合っていた。
「あれが、例の新兵か」
「まぐれだろう。新兵に何が分かる」
「まぐれで、全員生きて帰れるかよ」
値踏みするような目だった。一目置く者と、面白く思わない者と。両方の視線がザインの背に刺さる。
ザインはどちらにも応えなかった。ただ黙って、薄い粥をすすった。
その時、一人の大柄な古参兵が、ザインの前に立ちはだかった。
「おい、新兵。いい気になるなよ」
男は酒の匂いをさせていた。
「お前のせいで、俺たちの面目は丸潰れだ。古参を差し置いて、ガキが手柄を立てやがって」
ザインは静かに男を見上げた。
「手柄を立てたつもりはありません。ただ、死にたくなかっただけです」
「言うじゃねぇか」
男が拳を振り上げかけた、その時。
「やめとけ」
低い声が割って入った。バルガだった。
「そいつの読みがなけりゃ、殿は全滅してた。お前も知ってるだろう。八つ当たりは、みっともねぇぞ」
古参兵は舌打ちして、その場を去った。
バルガはザインの隣に腰を下ろした。
「礼は言わん。戦場で礼を言い合ってたら、きりがねぇからな。だが、一つ言っとく」
バルガが顔を上げた。痩せた顔に鋭い目が光っている。
「目立った新兵は、二通りに転ぶ。引き上げられるか、煙たがられて潰されるか。お前がどっちに転ぶかは、これからのお前次第だ。さっきみたいな手合いは、これからも湧く。……まあ、せいぜい長生きしろや」
それは古参兵なりの忠告だった。乱暴な口調の下に確かな経験の重みがある。
ザインはその言葉を腹に収めた。
その夜、ザインは一人、井戸端で体を拭った。
桶の水に布を浸し、絞る。布はすぐに赤黒く濁った。爪の間にも首筋にも戦の名残がこびりついている。いくら拭っても完全には落ちない気がした。
水面に二つの月が映っていた。ザインはしばらく、その揺れる蒼い光を見つめた。
昨日まで自分はただの新兵だった。今日、噂になり、古参に絡まれ、上官に目をかけられた。たった数日で立っている場所が少しずつ変わっていく。
だが変わらないものもある。仲間を死なせたくない。その一念だけは前世から地続きだった。
名取真として生きた三十一年。あの頃も結局はそれだけを願って働いていた気がする。守る相手も守る形も違う。だが芯にあるものは変わっていない。
ザインは濡れた布を絞り、最後にもう一度顔を拭った。明日からはより深く戦に関わっていく。その予感だけは確かにあった。
その日の昼、ガロの傷の手当てが済んだ。
肩の矢は幸い骨を外れていた。数日もすれば槍を握れるだろうと、軍医は言った。
「お前のせいで、しばらく飯が旨いぜ」
寝台でガロが笑った。
「負傷兵は、前線に出なくていいからな。お前は休みなしだろうが」
「……お前は本当に、飯のことばかりだな」
ザインは呆れて、しかし少し笑った。
ガロが生きている。それだけで胸の重さがいくらか軽くなる気がした。
寝台の周りには他にも負傷兵が横たわっていた。呻く者。眠れずに天井を見つめる者。傷の浅い者から、もう助からないと誰もが察している者まで。
ここは生と死の境目だった。その境目をザインは今日も、辛うじて生きている側で越えていた。
天幕を出ると、空に二つの月が並んで昇っていた。大小ふたつの、蒼い光。
ザインはまだ生きていた。初陣を越え、初めての殺しを越え、仲間を一人も死なせずに帰ってきた。
だがこれはまだ、長い戦の入口に過ぎない。
西の空の彼方ではより大きな戦の歯車が、すでに静かに回り始めていた。




