表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/117

第8話 帰還

 砦に戻ったのは日が暮れてからだった。


 城門をくぐると、篝火の灯りの中で残っていた兵たちがいっせいに殿の隊列を見た。


 全滅も覚悟された殿が、傷を負いながらも全員生きて帰ってきた。その事実が低いざわめきとなって広がっていく。


 担架で運ばれる負傷兵。肩を貸し合って歩く者。誰もが泥と血にまみれ、足取りは重い。だが生きていた。


 ザインは特に何も言わず、分隊と共に天幕へ向かった。


 体は鉛のように重く、頭の芯だけがまだ妙に冴えていた。戦が終わってもすぐには気が抜けない。それもいつか習い性になるのだろうか。


 だが噂は足より速かった。


 翌朝には砦じゅうが知っていた。隘路の伏兵を読み当て、水路に拠って殿を救った新兵がいる、と。


 飯の列に並んでいると、見知らぬ古参兵がザインを横目で見て囁き合っていた。


「あれが、例の新兵か」


「まぐれだろう。新兵に何が分かる」


「まぐれで、全員生きて帰れるかよ」


 値踏みするような目だった。一目置く者と、面白く思わない者と。両方の視線がザインの背に刺さる。


 ザインはどちらにも応えなかった。ただ黙って、薄い粥をすすった。


 その時、一人の大柄な古参兵が、ザインの前に立ちはだかった。


「おい、新兵。いい気になるなよ」


 男は酒の匂いをさせていた。


「お前のせいで、俺たちの面目は丸潰れだ。古参を差し置いて、ガキが手柄を立てやがって」


 ザインは静かに男を見上げた。


「手柄を立てたつもりはありません。ただ、死にたくなかっただけです」


「言うじゃねぇか」


 男が拳を振り上げかけた、その時。


「やめとけ」


 低い声が割って入った。バルガだった。


「そいつの読みがなけりゃ、殿は全滅してた。お前も知ってるだろう。八つ当たりは、みっともねぇぞ」


 古参兵は舌打ちして、その場を去った。


 バルガはザインの隣に腰を下ろした。


「礼は言わん。戦場で礼を言い合ってたら、きりがねぇからな。だが、一つ言っとく」


 バルガが顔を上げた。痩せた顔に鋭い目が光っている。


「目立った新兵は、二通りに転ぶ。引き上げられるか、煙たがられて潰されるか。お前がどっちに転ぶかは、これからのお前次第だ。さっきみたいな手合いは、これからも湧く。……まあ、せいぜい長生きしろや」


 それは古参兵なりの忠告だった。乱暴な口調の下に確かな経験の重みがある。


 ザインはその言葉を腹に収めた。


 その夜、ザインは一人、井戸端で体を拭った。


 桶の水に布を浸し、絞る。布はすぐに赤黒く濁った。爪の間にも首筋にも戦の名残がこびりついている。いくら拭っても完全には落ちない気がした。


 水面に二つの月が映っていた。ザインはしばらく、その揺れる蒼い光を見つめた。


 昨日まで自分はただの新兵だった。今日、噂になり、古参に絡まれ、上官に目をかけられた。たった数日で立っている場所が少しずつ変わっていく。


 だが変わらないものもある。仲間を死なせたくない。その一念だけは前世から地続きだった。


 名取真として生きた三十一年。あの頃も結局はそれだけを願って働いていた気がする。守る相手も守る形も違う。だが芯にあるものは変わっていない。


 ザインは濡れた布を絞り、最後にもう一度顔を拭った。明日からはより深く戦に関わっていく。その予感だけは確かにあった。


 その日の昼、ガロの傷の手当てが済んだ。


 肩の矢は幸い骨を外れていた。数日もすれば槍を握れるだろうと、軍医は言った。


「お前のせいで、しばらく飯が旨いぜ」


 寝台でガロが笑った。


「負傷兵は、前線に出なくていいからな。お前は休みなしだろうが」


「……お前は本当に、飯のことばかりだな」


 ザインは呆れて、しかし少し笑った。


 ガロが生きている。それだけで胸の重さがいくらか軽くなる気がした。


 寝台の周りには他にも負傷兵が横たわっていた。呻く者。眠れずに天井を見つめる者。傷の浅い者から、もう助からないと誰もが察している者まで。


 ここは生と死の境目だった。その境目をザインは今日も、辛うじて生きている側で越えていた。


 天幕を出ると、空に二つの月が並んで昇っていた。大小ふたつの、蒼い光。


 ザインはまだ生きていた。初陣を越え、初めての殺しを越え、仲間を一人も死なせずに帰ってきた。


 だがこれはまだ、長い戦の入口に過ぎない。


 西の空の彼方ではより大きな戦の歯車が、すでに静かに回り始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ