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第7話 機転

「水路だ! 全員、左の溝に飛び込め!」


 ザインは喉が裂けるほどの声で叫んだ。


 バルガが一瞬、誰の指図だという顔をした。だが状況が迷う時間を許さなかった。


「やれ! 新兵の言う通りにしろ!」


 古参のバルガが即座に乗ったのは、彼自身、その溝の価値を一目で理解したからだった。


 殿の生き残りが崩れた水路跡へ転がり込む。


 深さは胸ほど。石積みの縁が斜面の上から射かけられる矢を遮った。矢は虚しく石を叩き、土に突き刺さるばかりで、溝の中までは届かない。


 そして突撃してくる王国兵は、溝の縁という一本の線でしか、攻めかかれなくなった。


 数の優位が消えた。


「ここなら、一対一だ」


 ザインは溝の縁に槍を構えた。


「上から来る奴を、縁で迎え撃つ。横一列に並べる敵じゃない。一人ずつ来るしかない。なら、一人ずつ返せる」


 バルガがにやりと牙を剥いた。


「……なるほどな。小僧、頭は使えるらしい」


 戦況が変わった。


 溝に拠った殿は縁を越えようとする敵を、一人また一人と突き落とした。地の利を失った王国兵は、次第に勢いを削がれていく。


 高い所から射かけるはずだった弓も、溝に隠れた的には当たらない。攻めあぐねた敵の動きに、迷いが生まれ始めた。


 数で押し切れると思っていた側が、押し切れない。その焦りが隊列の足を鈍らせる。戦は勢いを失った方から崩れる。


 ザインはその隙にガロを溝の底に座らせた。肩の矢を布で縛る。


「動くな。深くはない。死なねぇよ」


「……お前が、俺の前に出たな」


 ガロが掠れた声で言った。


「庇いやがって。お前が死んだら、背負うのは俺だぞ。背負った分、腹が減る。腹が減れば飯が要る。理屈だろ」


 ザインは思わず小さく笑った。


 あの行軍の朝、ガロが言った軽口の、そっくりな返しだった。恐怖の最中でそれは奇妙なほど胸を温めた。


「ばか。こんな時に笑う奴があるか」


 ガロも痛みに顔を歪めながら笑った。


 二人の間にほんの一瞬だけ、戦場とは思えない空気が流れた。


 それが生きているという事だった。


 やがて本隊が異変に気づいて、引き返してきた。


 隘路の向こうから、帝国軍の主力が逆落としに駆け下りてくる。


 挟まれたのは今度は王国の別働隊の方だった。前後から押され、退路を断たれ、伏兵は潰走していく。


 日が傾く頃、戦は終わっていた。


 殿は一人も欠けることなく生き延びていた。傷を負った者はいる。だが死んだ者はいない。あの数の不利から、これは奇跡に近かった。


 溝の縁に腰を下ろし、ザインは荒い息を整えた。


 全身が泥と汗にまみれ、腕は鉛のように重い。だが生きていた。仲間もガロも生きている。


 それが今はただ信じられないほど大きな事に思えた。


 溝の底には息絶えた王国兵も転がっていた。さっきまで縁の上から自分を突こうとしていた男だ。ザインはその顔を見ないように、目を逸らした。慣れたくはなかった。まだ、慣れたくはなかった。


「ザイン、と言ったな」


 ドレク軍曹が溝の脇に立っていた。


「お前の読み通りだった。あの丘に、敵は伏せていた。そして、お前の見つけたこの溝が、殿を全滅から救った」


 軍曹は腕を組み、ザインを見下ろした。


「新兵が初陣で人を突き、味方を律し、地形で隊を生かす。……三日分の働きを、一日でやりやがった」


「運が、良かっただけです」


「運も実力のうちだ。だが、お前のは運じゃない。目だ」


 軍曹は少し声を落とした。


「俺も昔、地形を読む兵に一度だけ命を救われた。そういう目を持つ奴は、戦場では何より貴重だ。槍が強い奴は、いくらでも代わりがいる。だが、隊を生かす目は、そうそう代わりがいない」


 ドレクは背を向け、歩き去りながら言った。


「お前の名は、上に上げておく。覚えておけ、ザイン。この軍では、頭の使える兵は長く生きる。長く生きた兵だけが、上に行く」


 その背をザインは黙って見送った。


 東の空に二つの月が昇り始めていた。


 大小ふたつの蒼い光が、生き延びた者たちの汚れた顔を、静かに照らしていく。


 ザインは自分の手を見た。


 今朝、人を突いた手。仲間を庇った手。活路を指し示した手。


 その同じ手で自分はこの世界をほんの少しだけ生き延びた。


 生きた。ガロも、仲間も生きた。あの数の不利を覆して、誰も死ななかった。今はただ、その一点が信じられない。ザインは泥に汚れた手を、きつく握りしめた。


 成り上がりの、最初の一歩だった。

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