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第6話 退き際

 マレンの村に帝国軍は一晩だけ留まった。


 翌朝、ドレク軍曹は撤収を命じた。村の制圧は果たした。これ以上、ここに長居する理由はない。


 深追いをしないのは賢明な判断だった。占領地を広げすぎれば、その分だけ守る兵が要る。今の帝国にその余裕はない。


 ザインの分隊は殿、隊列の最後尾に回された。


 退路を護る役だった。最も地味で最も死にやすい位置だ。


「殿か。新兵に回す仕事じゃねぇんだがな」


 バルガが舌打ちした。


「敵が反撃に出るなら、狙うのは引き上げる時だ。背中を見せた瞬間が、一番脆い。覚えとけ」


 その言葉がザインの胸の奥で、また何かを鳴らした。


 行きに通った、あの狭い街道。両側から丘が迫り、深い草が斜面を覆っていた場所。


 ――伏せるならここだ。


 行きに感じた違和感は、まだ消えていなかった。むしろ帰り道でこそ、それは牙を剥く。


 行きは敵が村にいると分かっていた。だから誰もが前を警戒した。


 だが帰りは違う。皆、戦を終えた気でいる。気が緩む。隊列は伸びる。そこを突かれたら、ひとたまりもない。


 昨日の戦で王国軍は四十のうち少なからずを討たれ、残りは逃げた。だが逃げた兵はどこへ行った。村には戻らなかった。ならどこかで合流して、機を窺っているはずだ。


 ザインは隊列を追ってドレクに追いついた。


「軍曹」


 ザインは声をかけた。


「行きに通った隘路。あそこは危ない。引き上げを狙うなら、敵はあの丘に伏せます」


 ドレクが足を止め、ザインを見た。


「根拠は」


「地形です。街道が狭まって、両側の斜面に身を隠せる草がある。本隊が抜けきる前に、後ろから挟めば、殿は孤立する。逃げた敵は、村に戻らなかった。どこかで待っているなら、あそこが一番都合がいい」


 軍曹はしばらく黙っていた。


「……斥候は、何も報せてこない」


「斥候が見落としたなら、なおさら危ない。いるのに、いないと思い込んで通る事になります」


 ドレクの目が細くなった。


 新兵の進言を一蹴するか、容れるか。判断の天秤がわずかに揺れた。


「迂回する時間はない。陽が落ちる前に砦へ戻らねば、それこそ夜襲の的だ」


 軍曹は低く言った。


「だが、お前の言い分は覚えておく。殿、警戒を倍にしろ。草むらから目を離すな。弓の構えを解くな」


 それがドレクにできる精一杯の譲歩だった。新兵一人の勘で行軍の段取りそのものは変えられない。


 隘路に差しかかったのは、昼を過ぎた頃だった。


 両側の丘が行きと同じように街道を挟んで迫ってくる。深い草。低い唸りのような風。


 ザインは槍を握る手に、汗が滲むのを感じた。喉が渇く。耳が草のざわめきの中の異音を探している。


 本隊の半ばが隘路を抜けた、その時。


 斜面の草がいっせいに動いた。


「来たぞ!」


 ザインが叫ぶより早く、丘の上から矢の雨が降り注いだ。


 悲鳴。倒れる音。隊列が乱れ、本隊と殿が分断される。


 草を割って、王国兵が雪崩れ落ちてきた。


 逃げ帰った先遣隊と、別働隊。彼らはここで合流し、息を潜めて待っていたのだ。ザインの読み通りに。


 殿のザインたちは瞬く間に包囲されかけた。


「壁を作れ! 背中を合わせろ!」


 バルガが怒鳴る。


 だが数が違った。斜面の上から押し寄せる敵に、平地の殿はじわじわと削られていく。上を取られているというだけで、これほど不利になるのか。ザインは奥歯を噛んだ。


 矢が一本、ザインの頬をかすめた。熱い線が走り、血が滲む。だが痛みを感じている余裕はない。一本でも多く穂先を払わなければ、次に倒れるのは味方だ。


 ガロが矢を肩に受け、片膝をついた。


「ガロ!」


 ザインはガロの前に出て、迫る敵の槍を払った。


 だが一人を払えば、二人が来る。このままでは殿は全滅する。


 頭の芯が灼けるように回転した。


 地形だ。地形を読め。敵が斜面の上にいるならその優位を消せる場所はどこだ。上から射かけられず、横からの突撃を一方向に絞れる場所は。


 ザインの目が街道脇の一点を捉えた。


 崩れかけた石積みの水路跡。かつて村へ水を引いていた、深い溝だ。


 あそこなら上からの矢が届かない。横からの突撃も縁という一本の線に絞れる。


 活路はそこにあった。


 二つの月は昼の空に隠れて見えない。


 矢は、まだ降り続いている。迷う時はなかった。考えるより先に、ザインは溝の縁へ目を走らせた。


 だがザインの中では生き延びるための一本の道が、稲妻のように白く閃いていた。

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