第73話 水の音
岩を抜けた隊は、谷の奥へ身を潜めた。
正面の尾根は敵が握っている。岩を落とす一点を抜けはしたが、その先にはさらに険しい道が続いていた。ザインは無理に進ませなかった。一度退いて窪地に隊を伏せ、まずは敵の陣の弱みを探ることにした。山では焦って動く者から死ぬ。前世の教えが、そう告げていた。
「マルト。お前の足で、敵の尾根を半周してこい。陣の形と、水をどこから取っているかだ」
「水、ですか」
「そうだ。兵は飯を一日抜いても戦える。だが水を一日断たれれば、もう槍は持てない。山の上に陣を布けば、必ずどこかから水を引いている。その筋を知りたい」
マルトはうなずき、岩肌を音もなく駆け上がっていった。ザインはその身軽さに、いつも舌を巻いた。
待つ間、コルネリアがそばへ来た。杖を膝に抱え、谷の奥の闇を見ている。
「あなた、いつも水とか糧とか、地味なことばかり考えてるのね」
「派手な一撃で戦は決まらない」
ザインは小さく笑った。
「腹と喉と眠り。それを握った方が、最後に立っている。剣より、ずっと強い」
「前にいた塔では」
コルネリアは静かに言った。
「私は、ただ撃つことだけを教わった。焼け、貫け、崩せ。それしか知らなかった。でもあなたといると、戦が別の形に見えてくる。人を生かすための戦が、あるんだって」
ザインは黙って彼女の横顔を見た。火のない闇の中で、その声は普段より柔らかかった。山の冷気の中で、二人の肩は触れそうなほど近かった。
「お前の蒼い焔は、人を守るためにある」
ザインは言った。
「現にお前は、何度も俺たちを守ってきた。撃つことしか知らなかった娘が、今は誰を守るかを選んでいる。それは、塔では教わらなかったことだろう」
コルネリアは少しだけ目を伏せた。返事はなかった。だがその沈黙は、拒みではなかった。
マルトを待つ間、ザインは谷の地形を頭に刻み続けた。岩の重なり。木の生え方。水のしみ出す筋。そのひとつひとつが山の言葉だった。前世の山で叩き込まれたのは土地は嘘をつかぬという理だった。兵は怯えて嘘の報せを上げる。だが地形は黙って真実を語る。読み違えるのはいつも人の側だった。
コルネリアはそんなザインの横顔を、しばらく黙って見ていた。
「あなたは、ひとりで山と話しているみたい」
「近いな」
ザインは小さく笑った。
「山は敵より正直だ。高みは射程をくれる。沢は喉を握らせる。隘路は数の差を消す。聞き方さえ知っていれば山は答える。敵将がどこで楽をしたがるかも、土地が教えてくれる」
「楽を?」
「ああ。人は楽な場所に陣を布く。水の近く、風の当たらぬ窪み。その癖を読めば敵の居所は半ば知れる」
コルネリアは感心したように息をついた。撃つことしか知らなかった戦が、ザインの口を通すたび別の奥行きを見せていく。それが不思議で、少しだけ心地よかった。
半刻ののち、マルトが戻ってきた。息を弾ませ、だが目は輝いていた。
「軍曹殿。見つけました。敵の陣は尾根の上ですが、水は北の沢から引いてます。細い樋を渡して、陣まで水を通してる。あの樋を断てば――」
「敵は、自分の足で水を汲みに下りるしかなくなる」
ザインの目が光った。地図を広げ、沢の筋と尾根の陣の位置を指でなぞる。頭の中で、いくつもの線がつながっていく。高みを取った者の、ただひとつの細い命綱。それが、いま見えた。
「だが、樋はおそらく敵も守っている」
バルガが腕を組んだ。
「迂闊に手を出せば、こっちが囲まれる」
「ああ。だから今すぐは断たない」
ザインは地図を巻いた。
「敵に気取られず、いつでも断てる位置を押さえる。断つのは、こちらの仕掛けが整ったその時だ。それまでは、知らぬふりをする」
ガロが感心したように口笛を吹いた。
「水ひとつで、山の主を引きずり下ろすってか。お前の頭は、つくづく恐ろしいな」
頭上に、二つの月が細い谷の空にかかっていた。大小ふたつの蒼い光が、闇の奥を流れる沢の水面に、揺れて映っていた。
ザインは断つべき樋の位置を頭に焼き付けた。沢を渡る一本の木の管。それが高みの陣と谷を結ぶただ一筋の命綱だった。守りは薄いが近づく道は険しい。敵の目を塞ぐ手立てがなければ近づけない。ザインは空を見上げ天の助けを待つしかないと知った。だが待つだけの男ではなかった。天が味方せぬなら別の手で敵の目を塞ぐ。その算段を頭の隅で組み始めていた。
その夜、ザインは沢の水音を聞きながら策を練った。山の主の命綱は、もう手の内にある。あとは、それを断つ時を見極めるだけだった。
だが翌朝、その策を根こそぎ揺るがす報せが、後方から届くことになる。




