第72話 落ちる岩
朝もやの中を、隊は尾根の根方へ向けて登っていた。
マルトの報せた王国の旗は、行く手の高い尾根に翻っていた。敵はその尾根に陣を布き、谷へ下る道を見下ろしている。ザインの隊が進むべき道は、その尾根の真下を縫っていた。逃れようがなかった。山の道はひとつきりだ。
「いやな配置だな」
ガロが頭上を見上げて呟いた。切り立った岩肌が、覆いかぶさるようにそびえている。
「あんな高みから石でも落とされたら、ひとたまりもねえ」
「ああ。だから敵もそうしてくる」
ザインは静かに答えた。その読みは、まもなく現実になった。
尾根の上で、人影が動いた。次の瞬間、轟音とともに岩塊が斜面を転がり落ちてきた。ひとつではない。いくつもの岩が砕けながら、土煙を上げて道へ雪崩れ込む。
「散れ! 岩陰へ!」
ザインの号令が谷にこだました。兵たちは左右へ飛び退いた。落ちる岩が、たった今まで隊のいた道を踏み潰していった。轟音が収まったとき、幸い犠牲は出ていなかった。号令が一瞬でも遅れていれば、何人かは岩の下だった。
「全員、無事か」
「無事です、軍曹殿。ですが……」
ティムが青い顔で頭上を見た。尾根の上から、また人影が岩を押し出そうとしている。
「これじゃ前へ進めません。進めば、また石が落ちてくる」
ザインは岩陰に身を寄せたまま、頭上の地形を読んだ。敵は尾根の縁から岩を落としている。だが岩を落とせる場所は限られる。縁が崩れやすく、押し出しやすい一点。そこからしか、まとまった岩は来ない。視線をその一点に据え、落下の角度と道の関係を頭の中で測った。
「バルガ。岩が落ちてくるのは、いつもあの突き出た崖の真下だ。道のそこだけが危ない。手前で止まって待ち、岩が落ちた直後に一気に駆け抜ける。次の岩を据えるまでには、間がある。その間に抜ける」
「博打だな」
バルガが低く笑った。
「だが、お前の博打はいつも目がある。やってみるか」
ザインは数を読んだ。岩が落ちて、次の岩が縁に据えられるまでの間合い。何度か落下を見て、呼吸を計った。
「次が落ちたら、走る。俺が先だ。続け」
轟音とともに、また岩が落ちた。土煙が道を覆う。
「今だ!」
ザインは煙の中へ飛び出した。兵たちが続く。崖の真下を、息を止めて駆け抜ける。背後で次の岩が落ちる音がした。だが遅かった。隊はすでに危険な一点を抜けていた。岩は、誰もいなくなった道を空しく潰しただけだった。
安全な岩陰に転がり込み、兵たちは荒い息をついた。
「抜けた……抜けたぞ!」
ガロが笑った。だがザインの顔は晴れなかった。岩を落とすのは足止めにすぎない。敵の狙いは隊をこの谷で消耗させ糧と気力を削ることにある。山の戦は、こうして始まっていた。
ザインは岩陰からもう一度尾根の縁を見上げた。敵がどこに何人いるのか朝の薄い光では判じがたい。だが岩を押し出す動きには癖があった。大岩は一人では動かない。数人がかりで縁まで運び息を合わせて落とす。その支度には必ず間がある。ザインはその間をただの隙とは見なかった。敵の人数と疲れ具合を測るものさしと見た。
落下の間が次第に長くなっていく。岩を運ぶ兵が疲れ始めた証だった。重い岩を高みまで担ぎ上げるのは落とされる側より骨が折れる。ザインはそれを冷たく読んでいた。敵は高みにいて有利に見える。だがその有利を保つために敵もまた汗を流し力を削っている。山の戦は見た目ほど一方的ではなかった。
ティムが土に汚れた顔で近づいてきた。
「軍曹殿。なんだか、敵の岩が遅くなってきた気がします」
「気のせいじゃない。向こうが疲れてきた証だ」
ザインは静かに答えた。
「岩を落とすたびに、敵も力を使う。俺たちが苦しいなら、向こうも苦しい。それを忘れるな。山では、辛抱した方が勝つ」
ティムは深くうなずいた。その言葉を胸に刻むように。
「マルト。あの尾根、回り込める道はあるか」
「探します。ですが、敵もそこを警戒しているはずです」
ザインはうなずいた。正面は通れない。回り道は読まれている。劣勢だった。だが、彼の目はむしろ静かに澄んでいた。
頭上に、二つの月が朝の空に薄く残っていた。大小ふたつの蒼い影が、岩の落ちる谷を、静かに見下ろしている。
「敵が高みを取った。なら、その高みを使えなくしてやる」
ザインは尾根を見上げ、低く呟いた。その目に、すでに次の一手が見え始めていた。




