第71話 山へ入る
山は、平地とは別の生き物だった。
ザインの隊は三日かけて谷を抜け、深い山岳地帯の入り口に立っていた。見上げれば峰が幾重にも連なり、雲が稜線に絡んでいる。道は細く、崩れた岩がそこかしこに転がっていた。馬を引くのも難しい。荷駄はたびたび止まった。
「聞いてはいたが、ひでえ土地だな」
ガロが息を切らして言った。背の荷を担ぎ直す。
「平地なら一日で行ける距離を、ここじゃ三日かけても着かねえ。こんなとこで戦をしろってのか」
「だからこそ、地の利を読んだ者が勝つ」
ザインは岩に手をつき、谷筋を見下ろした。脳裏に前世で叩き込まれた地形の理が浮かぶ。高所を取れば視界と射程を得る。隘路を握れば数の差を消せる。山は不利を生むが、読み切れば武器にもなる。
問題は、その理を兵に信じさせることだった。山に入った兵は心細い。視界は閉ざされ、退路は細い。一歩を踏み外せば谷底だ。そんな土地で平地と同じ士気を保たせるのは難しい。ザインはそれを知っていた。だからまず、隊の足取りそのものを整えねばならなかった。
ザインは隊を呼び止め、行軍の組み方を変えた。重い荷を持つ者を中ほどに置き、身軽な者を前後に散らす。崩れやすい斜面では一列に細く伸び、開けた場所で間を詰める。前世の山岳行軍の理屈を、この世界の道に合わせて噛み砕いた。兵たちは最初こそ戸惑ったが、足の運びがわずかに楽になると、黙って従い始めた。
「不思議なもんだ」
ガロが汗を拭いながら言った。
「同じ道なのに、組み方ひとつで息が違う。お前の頭ん中は、いったいどうなってんだ」
「ただの段取りだ。山は力で登るんじゃない。理屈で登る」
「マルト。先の道を見てこい。崩れの少ない筋と、水の取れる場所だ」
「了解です、軍曹殿」
足の速い斥候が身軽に岩を駆け上がっていった。その背を見送り、バルガが低く言った。
「軍曹。問題は道じゃねえ。糧だ」
「ああ」
ザインはうなずいた。バルガの言う通りだった。
「補給線が、谷の向こうまで伸びきってる。荷駄がこの山道を一往復するだけで、何日かかる。糧が届く前に、隊が干上がる」
「分かってる。だから、現地で水と薪は確保する。糧は節約だ。一日二食を、当面一食半に落とす」
兵たちの間に小さなどよめきが走った。だがザインは目を逸らさなかった。
「文句は分かる。だが腹を満たして谷で死ぬより、腹を減らして山で生きるほうがいい。俺もお前たちと同じ椀を食う。それでいいな」
ティムが顔を上げた。
「軍曹殿が同じなら、俺たちも文句は言いません」
その素直な言葉に、隊の空気が少し緩んだ。ザインは内心、ティムの成長を改めて思った。かつて手を震わせていた若兵が、今は隊の気持ちを和らげる言葉を持っている。
その夜。隊は岩陰に身を寄せて野営した。火は小さく、目立たぬよう焚いた。山の冷気は平地の比ではなく、薄い夜気が肌を刺した。兵たちは身を寄せ合い、毛布を分け合って眠りについた。歩哨だけが交代で岩の上に立ち、闇の奥をうかがっていた。
ザインは懐の木彫りの小鳥にそっと触れた。セドの形見は、いつも変わらぬ重みを伝えてくる。守れなかった命の重み。その重みを、ザインは忘れぬよう懐に抱いていた。山の戦は険しい。ここでまた誰かを失うわけにはいかない。地形を読み、糧を握り、犠牲を一人でも減らす。それが、残された者の選んだ道だった。
コルネリアが隣に腰を下ろした。
「山は、嫌い?」
「いや。読みがいがある」
ザインは小さく笑った。
「平地の会戦は、数と勢いだ。だが山は、頭で勝てる。俺向きの戦場だ」
「あなたらしいわね」
コルネリアも微かに笑った。火明かりに照らされた横顔を、ザインはしばし見つめた。山に入ってから、この女がそばにいることが、ザインの心をどれほど支えているか。口には出さなかった。だが握った手の温もりを、ザインは覚えていた。
その時、戻ってきたマルトが息を切らせて告げた。
「軍曹殿。先の尾根に……王国の旗が見えました。それも、ひとつや二つじゃない」
ザインの目が鋭くなった。山の主は、すでに敵が握っている。
頭上に、二つの月が冷たく光っていた。大小ふたつの蒼い光が、峰の影と、これから始まる山の戦を、静かに照らしている。
高所はすでに敵の手にある。ザインは地図を広げ、低い声で呟いた。
「さて。どう引きずり下ろすか」




