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第70話 残された者

 ヴァレクを失った王国の北方軍は、勢いを失った。


 鉄甲の武人はただの将ではなかった。その存在そのものが軍の支柱だった。支柱を失った軍は北辺から徐々に退いていった。帝国は谷を確保した。北の戦線はひとまず帝国の側へ傾いた。


 痩せた丘に、ようやく春の気配が差し始めていた。固く凍てた土が緩み、枯れ草の間から小さな緑が顔を出す。長い戦に削られた土地にも、季節はめぐる。死んだ者の上にも、生きる者の上にも、等しく。


 ガレウス将軍が、わざわざザインの陣を訪れた。


「ザイン。お前の名は、もう北辺中に轟いている。鉄甲のヴァレクを討った男だ。あの武人を倒す将がこの帝国にいるとはな」


「俺一人の手柄ではありません」


 ザインは静かに答えた。


「崖の上の射手。岩を運んだ兵。使者を務めたマルト。皆の働きです。それに……死んだ者たちの分もあります」


 将軍はその言葉に深くうなずいた。


「その謙虚さが、お前の強さだ。よく聞け、ザイン。お前はもう、ただの軍曹に収まる器ではない。いずれ士官への道を俺が拓いてやる。それまで、生きて戦い続けろ」


「は」


 将軍が去った後、ザインは隊の天幕でひとり木彫りの小鳥を見つめていた。


「ザイン」


 コルネリアが入ってきた。手当てを終えたばかりの肩に、新しい布が巻かれている。


「肩の傷、痛む?」


「もう平気だ」


「無茶をしすぎよ。あなたが死んだら、私は……」


 コルネリアは言葉を止めた。その目がわずかに潤んでいた。ザインはその手をそっと握った。


「死なない。お前を残しては、死ねない」


 コルネリアの頬が赤らんだ。だが今度は火のせいにはしなかった。二人はしばらく黙って手を握り合っていた。言葉はなかった。だが、確かな何かが、そこにあった。


「この小鳥」


 ザインは木彫りを見せた。


「セドが、妹に届けてくれと言った。この戦が終わったら、必ず届ける。あいつが立派に戦ったと、逃げなかったと伝える」


「私も、一緒に行く」


 コルネリアが言った。ザインはうなずいた。一人で背負うな。一緒に背負わせて。あの夜の言葉が、こうして形になっていく。喪失を分け合える者がいる。それは、転生してこの世界へ落ちた頃には、思いもしなかったことだった。


 ザインは小鳥を、丁寧に布で包んだ。いつか必ず、セドの村へ。その約束が、戦い続ける理由のひとつになった。守れなかった命の重さを、次の誰かを守る力に変える。それしか、残された者にできることはなかった。


 その夜。隊は静かな酒を酌み交わした。勝利の祝いではなかった。死んだ者を悼み、生き残った者の絆を確かめる夜だった。空いた席には誰も座らなかった。だがもう、目を逸らす者もいなかった。


 ティムが、ぽつりと言った。


「セドは、最後まで逃げませんでした。あいつ、最初は槍を握る手も震えてたのに。立派になりました」


「お前も、最初はそうだった」


 ザインは静かに言った。


「二重罠で重傷を負って、それでも戻ってきた。今は隊の左の角を任せられる。セドも、お前も、皆、成長した。その成長を、俺は誇りに思う」


 ティムが目を伏せた。涙をこらえているのが分かった。バルガが黙ってその肩に手を置いた。古参の手は、何も言わずとも、多くを伝えた。


「セドに」


 ガロが椀を掲げた。


「あいつの分も、生きてやろうぜ」


「セドに」


 皆が椀を掲げた。ティムもマルトもバルガも。コルネリアも。そしてザインも。


 頭上に二つの月が昇っていた。大小ふたつの蒼い光が、欠けた席のある天幕を静かに照らしている。


 ザインは初めて戦友を失った。守ると誓った命を守れなかった。その傷は、消えない。だが、その傷を抱えてなお前へ進むことを、ザインは選んだ。それが残された者の務めだった。


 名のある敵を越えた。だが戦は、まだ終わらない。北の谷の先には、さらに険しい戦線が待っている。地形を、兵站を、人心を。そのすべてを読み切る将へ。ザインの道は、まだ続く。


 翌朝、新たな進軍の命が届いた。次の戦場は、深い山岳地帯。地の利を制した者が、勝つ土地だという。


「面白くなってきたな」


 ザインは地図を広げて低く呟いた。その目に、再び静かな闘志が宿っていた。


 二つの月が、次なる戦場へ向かうザインたちの背を静かに見送っていた。

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