第68話 崖の道
夜明けとともに、蹄の音が隘路へ近づいてきた。
ザインは道の入り口に立っていた。背後に一隊。崖の上には伏兵が身を伏せている。朝もやの向こうから、鉄甲の影が現れた。先頭はヴァレク本人。配下の重騎士が、その後ろに細く連なっていた。
ヴァレクは隘路の手前で馬を止めた。深い傷の走る顔が、ザインを見下ろした。
「来たな、小僧」
低い声が、崖に反響した。
「お前の挑みを受けた。逃げぬとも約束した。だが、ひとつ言っておく。俺はこの道の先に、お前の伏兵がいると見ている」
「気づいておられましたか」
ザインは静かに答えた。隠す気はなかった。
「ならば、なぜ来たのです。引き返せば、命は無事でしょうに」
「引き返す?」
ヴァレクが豪快に笑った。
「まっすぐ挑んできた者から逃げて、何が武人か。伏兵があろうとなかろうと、関係ない。お前は正面から来た。俺も正面から行く。それだけだ」
その言葉に、ザインは胸を打たれた。この男は、罠を知りながら、誇りのために真っ直ぐ進む。それを愚かとは思えなかった。むしろ、まぶしかった。
「ならば――参ります」
ザインは槍を構えた。ヴァレクが馬腹を蹴った。鉄甲の壁が、細い崖の道へ雪崩れ込んでくる。
その瞬間、ザインは手を挙げた。
「今だ!」
崖の上から岩が落ちた。矢が降り注いだ。隘路に入った重騎士は馬を並べることも向きを変えることもできない。岩に潰され、矢に貫かれ、次々と崩れていく。狭い道がたちまち鉄甲の墓場になった。
馬の悲鳴が崖にこだました。重い鎧をまとった騎士は、馬を失えば身動きが取れない。崖の道は逃げ場がなかった。前へ進めば岩。退けば矢。横は切り立った崖。ザインの読み通り、重騎士の力はこの細い道で完全に死んでいた。
武勇では勝てない相手を、地形が一方的に屠っていく。それは戦というより、処刑に近かった。ザインは胸の奥で痛みを感じた。だが手を止めなかった。止めれば、また味方が死ぬ。セドのように。
だが先頭のヴァレクだけは違った。
落ちる岩を馬で躱し、降る矢を槍で弾く。化け物じみた武勇だった。一頭の馬と一本の槍だけで、岩と矢の死の雨を切り裂いていく。その姿はもはや人間の業を超えていた。崖の上の射手が息を呑むのが、ザインにも分かった。
岩と矢の雨を抜けて、ヴァレクはザインへ突っ込んできた。配下を全て失ってなお、その勢いは衰えていなかった。
「お前とは、正面から相見えたかった!」
ヴァレクの槍が伸びた。ザインは受け流そうとした。だが今度は躱しきれない。穂先が肩を裂き、ザインは地に転がった。
「軍曹殿!」
ガロが叫んだ。だがザインは手で制した。倒れたまま、ヴァレクを見上げた。
ヴァレクは馬上から、とどめの槍を構えた。だが、振り下ろさなかった。
「……見事だ、小僧」
ヴァレクの周りには、もう配下が一人もいなかった。岩と矢が、重騎士隊を全滅させていた。たった一人、生き残ったのが、この武勇の塊だった。
「俺の隊は、全滅した。お前の読み勝ちだ。一人残った俺を斬るのは、お前の兵の役目ではない。お前自身の槍であるべきだ。立て、小僧。最後の一合だけ、受けてやる」
ザインは血を流しながら立ち上がった。震える足で槍を構えた。武勇ではこの男に勝てない。それは分かっていた。だが逃げることだけはできなかった。この武人の最期の挑みを、まっすぐ受けねばならない。それが、ここまで全力で戦い抜いた相手への、唯一の礼だった。
ヴァレクは馬を降りた。徒歩で、傷ついたザインと同じ地面に立った。
「馬上から、傷ついた相手を突くのは武人の恥だ。同じ地に立って、最後の一合を交えよう」
「……感謝します」
ザインは槍を握り直した。肩から血が滴る。視界が霞む。だが目だけは、ヴァレクから離さなかった。
二人の槍が、崖の道で交わった。
頭上に、沈みゆく二つの月が残っていた。大小ふたつの蒼い光が、最後の一合を交える二人の男を、静かに照らしている。
槍と槍がぶつかり、火花が散った。ヴァレクの一撃は重く、ザインの体を崖際まで押した。だがザインは退かなかった。武勇では届かぬ差を、ただ一念で埋めていた。ここで倒れるわけにはいかない。隊が見ている。セドが見ている。
その一合の結末を、まだ誰も知らなかった。崖の道に、二人の荒い息だけが響いていた。




