第67話 使者
使者にはマルトが立った。
足の速さなら隊一番。万が一斬られても逃げ切れる見込みが最も高い。ザインはマルトに口上を授けた。嘘はひとつもない口上だった。
「いいか、マルト。胸を張って言え。媚びるな。脅すな。ただまっすぐに告げろ。それがあの男に通じる唯一のやり方だ」
「分かりました。けど軍曹殿、本当に俺が斬られたりしませんよね」
「あの男は使者を斬らない。武人の作法だ。お前は安全だ。だが油断はするな」
マルトは白旗を掲げて北の敵陣へ向かった。ザインは丘の上からその背を見送った。小さくなっていく背中を見ながら、胸の奥がわずかに張り詰めた。使者を斬らぬのが武人の作法とはいえ、戦場に絶対はない。あの足の速い若兵が、無事に戻る保証はどこにもなかった。
隣でガロが腕を組んでいた。
「うまくいくかね、軍曹」
「いく」
ザインは短く答えた。
「あの男は必ず応じる。応じないことが、あの男にはできない」
半刻後。マルトは無事に戻ってきた。息を弾ませ、だが顔には興奮があった。
「軍曹殿! 会いました。ヴァレク本人に! 口上を、全部告げました」
「で、あの男は何と」
マルトはその時の光景を思い出すように語った。
「ヴァレクはしばらく黙って俺を見てました。それから笑ったんです。豪快に。『面白い小僧がいるものだ』って。『あの斜面で俺の槍を受け流した、あの男か』って」
ザインは目を細めた。覚えられていた。あのすれ違いざまの一瞬を、だ。
「それで、『受けて立つ』と。『逃げると思われては、ヴァレクの名がすたる』と。明日の朝あの隘路へ向かうと、はっきり言いました」
「そうか」
ザインは静かに息を吐いた。読みは当たった。誇り高い武人は、自ら罠の道を選んだ。
「ただ……」
マルトの顔が少し曇った。
「ヴァレクは、最後にこう言いました。『あの小僧に伝えよ。小細工があっても構わぬ。戦とはそういうものだ。だが、まっすぐ来た俺を、まっすぐ迎えてくれるなら、それでいい』と。……軍曹殿。あの人、崖の上の伏兵に、気づいているのかも」
ザインはしばらく黙った。胸の奥がざわついた。
あの男は、罠を承知で来る。崖の上に兵が潜むことを察しながら、なお誇りゆえに、まっすぐ来る。それを卑怯と詰るのではなく、戦の備えとして認めて受けて立つと言う。
「……どこまでも、武人だな」
ザインは低く呟いた。敬意と、わずかな苦さが入り混じる声だった。
「あの人を、罠に嵌めるんですか」
マルトの声は複雑だった。ザインは答えなかった。すぐには答えられなかった。
ガロがその沈黙を破った。
「軍曹。俺はな、こう思うぜ。あの男が罠を承知で来るってんなら、そりゃもう罠じゃねえ。正面からの殴り合いだ。向こうも全力、こっちも全力。武勇の男と、知恵の男が、本気でぶつかる。それだけのことだ」
「……そうだな」
ザインは小さくうなずいた。ガロの言葉はザインの胸のつかえを、少しだけ軽くした。
「あの人が承知で来るなら、こっちも一切手を抜かない。それが、あの男への礼儀だ。中途半端な情けこそ、あの誇りを侮辱する」
ザインの目から迷いが消えた。敬意とは、全力で勝ちにいくことだった。手加減は、あの武人を最も貶める。
その夜。ザインは隘路の地形をもう一度すべて頭に刻んだ。崖の高さ。岩を落とす位置。射手の配置。馬の利かぬ道幅。そのすべてを完璧に整えた。万にひとつの綻びも許さなかった。セドの死を繰り返さないために。
兵たちは崖の上へ、夜のうちに登った。岩を集め、矢束を並べ、身を伏せる場所を作る。物音ひとつ立てぬよう、誰もが息を殺して働いた。隘路の底にはザインの一隊が陣を張った。囮にして、本陣。誇り高い武人を真正面から迎える、最初の盾だった。
すべての配置を終えたとき、東の空がわずかに白み始めていた。長い夜が、ようやく明けようとしていた。
頭上には、まだ沈みきらぬ二つの月が残っていた。大小ふたつの蒼い光が、まもなく決戦の場となる隘路を、冷たく照らしている。
その薄れゆく月の下で、二人の男が、それぞれの誇りを賭けて夜明けを迎えようとしていた。読みの男と武勇の男。今日、その二つが細い崖の道で交わる。
ザインは小鳥を握りしめ、まだ見ぬ夜明けを見据えた。




