第62話 崩れる一点
日が傾き始めても、ヴァレクの槍は止まらなかった。
四度。五度。鉄甲の壁は斜面を駆け上がり、そのたびに帝国の隊を削った。ザインの隊は耐え続けた。だが耐えるたびに、確実にすり減っていく。槍を握る手は痺れ、盾を支える腕は鉛のように重い。
「軍曹……あと、どれくらいだ」
ガロが肩で息をしながら言った。普段の軽口は、もう出てこない。
「もう少しだ。日が沈めば騎兵は退く。あと一刻、保てばいい」
ザインも限界が近かった。肩の傷が熱を持ち、視界がときおり霞む。だが折れるわけにはいかなかった。自分が折れれば、隊が折れる。
その時。中隊の本陣のほうから、伝令が転がるように駆けてきた。
「軍曹殿! 中央が、中央が崩れかけています! 敵が、本陣の正面を突いて――」
ザインは弾かれたように顔を上げた。読み違えていた。ヴァレクは右でも左でもなく、隊と隊の継ぎ目を狙っていたのだ。一日かけて両翼を削り、味方の注意をそこへ引きつけ、手薄になった中央へ全力を叩き込んだ。
「謀られた」
ザインは唇を噛んだ。あの落ち着きはこのための布石だった。両翼への突撃はすべて中央を空けさせるための囮だったのだ。
武人だと思っていた。正面から力でしか来ない男だと。だが違った。ヴァレクは武勇の人であると同時に、戦の全体を見る将でもあった。誇りを持って正面から突きながら、その裏で冷徹に盤面を読んでいた。ザインの読みは、その二重の顔を捉えきれなかった。
悔しさが胸を焼いた。だが悔やんでいる暇はない。今ここで打つ手を間違えれば、隊が消える。
「全隊、中央へ寄せる! このままでは中隊が割られる!」
ザインは隊を返した。だが中央へ向かうには、開けた斜面を横切らねばならない。重騎士の最も得意とする地形だ。
「軍曹殿、あそこを渡るのは……」
ティムが青ざめた。
「分かっている。だが行かねば中隊が崩れる。崩れれば、ここの俺たちも背後を取られて全滅だ。賭けるしかない」
隊が斜面を横切り始めた。案の定、ヴァレクの一隊がそれを見て向きを変えた。横合いから、鉄甲の壁が迫ってくる。逃げ場のない開けた斜面で、騎兵の突撃を横腹に受ける。最悪の形だった。
「散れ! 固まるな! 岩のある方へ走れ!」
ザインが叫んだ。兵たちが散開する。だが足の遅い者から、騎兵に追いつかれていく。
マルトが足の遅い兵を引っ張り、ティムが転んだ兵を抱え起こす。隊は必死で岩場を目指した。だが斜面はあまりに広く、岩場はあまりに遠かった。背後の蹄の音が、刻一刻と近づいてくる。
その時。隊の最後尾にいたセドが、足を止めた。
「軍曹殿! しんがりは俺が務めます! 皆を、先に行かせてください!」
「やめろ、セド! 戻れ!」
ザインは叫んだ。だが声は蹄の轟きにかき消された。セドは槍を構え、迫る騎兵の前に立ちはだかった。小さな背中が、鉄甲の壁の前で、ひどく頼りなく見えた。
「あの馬鹿……!」
ガロが舌打ちして引き返そうとした。ザインがその腕を掴む。
「待て。今戻れば、お前も巻き込まれる」
「だがセドが――!」
ザインの胸が締めつけられた。あの少年を家で待つ三人のもとへ帰すと誓った。その誓いが今、目の前で崩れようとしている。
走り出そうとする足を、理性が縛った。ここで引き返せば隊の半分が背後を突かれて死ぬ。指揮する者は、一人を救うために十人を捨てることはできない。その冷たい計算が、ザインの足を地に縫いつけた。
動けない。動けば全てが崩れる。だが動かなければ、セドが死ぬ。指揮する者の業が、これほど重く感じられたことはなかった。喉の奥から、声にならぬ叫びがせり上がった。
セドの槍が先頭の騎士の馬を一頭、突き伏せた。新兵とは思えぬ働きだった。あの臆病だった少年が、たき火のそばで槍を握る手を震わせていた少年が、今、仲間を逃がすために独り立ちはだかっている。その姿は、もう新兵のものではなかった。
だが二頭目は止められない。鉄甲の影が、小さな背中へ覆いかぶさる。セドはなお槍を立てた。逃げなかった。最後まで、隊のために立ち続けた。
頭上に、夕闇とともに二つの月が昇り始めていた。大小ふたつの蒼い光が、斜面に立ち尽くす一人の少年を、冷たく照らし出した。
「セド――!」
ザインの叫びが、暮れゆく斜面に裂けて消えた。




