第61話 鉄甲の槍
ヴァレクの槍が、左の角を貫いた。
ティムが受けた最初の一撃は、盾ごと弾き飛ばされた。だがティムは退かなかった。地に転がり、すぐに身を起こす。その隙に二列目が穂先を立て、ヴァレクの馬の脚を狙った。
「退け、ティム! 俺が代わる!」
ザインが滑り込むように左の角へ入った。ティムを後ろへ突き飛ばし、自ら最前へ立つ。目の前に、鉄甲の巨影が迫っていた。
ヴァレクの馬が、急斜面に脚を取られて速度を落とした。それでも勢いは凄まじい。槍の穂先が、ザインの胸めがけて伸びてくる。
ザインは受けなかった。受ければ砕かれる。体を半身にひねり、穂先を肩で受け流した。鎧が裂け、肩に熱が走る。だが致命の一撃を、わずかにかわした。
すれ違いざま、ザインはヴァレクの顔を間近に見た。深い傷の走る、岩のような顔。その目は冷たくも、濁ってもいなかった。澄んでいた。戦うことだけに澄んだ、武人の目だった。
「ほう」
ヴァレクの低い声が、すれ違いざまに落ちた。
「俺の槍を、受け流した者は久しいぞ。小僧、名は」
ザインは答えなかった。答える余裕がなかった。肩から血が滴っている。だがヴァレクは馬を返し、追撃をしなかった。倒れた敵を背後から討つことを、その誇りが許さない。
「ザイン!」
岩場の高みからコルネリアの叫びが飛んだ。蒼い焔がヴァレクの馬の正面で爆ぜた。馬が驚いて棹立ちになる。その隙にザインは左の角から退き隊列の内へ戻った。
ヴァレクは追わなかった。棹立ちになった馬を鎮め、ゆっくりと斜面の下へ引いていく。その背は悠然としていた。勝ち急ぐ気配はどこにもない。この一日をまるごと使って、こちらを削り切るつもりだった。
その落ち着きが、何よりも恐ろしかった。
「軍曹殿、肩が……!」
セドが青ざめて駆け寄ってきた。
「かすり傷だ。下がっていろ」
ザインは血の流れる肩を布で縛った。痛みより、寒気のほうが強かった。あの一瞬。半身にならなければ、自分は今ここにいない。武勇の差は、思っていた以上だった。
左の角は辛うじて持ちこたえた。だが代償は大きかった。最前に立った兵が三人ヴァレクの槍に倒れていた。隊全体の疲れも濃い。
ザインは倒れた三人のもとへ目を走らせた。一人はまだ息があった。腹を裂かれている。助からぬ傷だった。男はザインを見上げ、何かを言おうとして、言えずに事切れた。ザインはその目を指で閉じた。
「軍曹殿のせいじゃない」
ガロが横から低く言った。声に普段の軽さはなかった。
「あの槍は誰にも止められねえ。お前が左の角へ走らなけりゃ、もっと死んでた。お前は隊を救ったんだ。それを忘れるな」
「分かっている」
ザインは短く答えた。だが胸の底は重かった。救えた命の数より、救えなかった命の重さのほうが、いつも勝る。それが指揮する者の業だった。
「軍曹」
バルガが汗と血にまみれた顔で言った。
「あの男、化け物だ。一突きで盾も鎧もまとめて砕く。まともに受けりゃ、何人いても足りねえ」
「分かっている」
ザインは斜面の下を見た。ヴァレクは再び兵を退かせ、隊列を整えていた。攻めあぐねたわけではない。ただ、こちらの守りの底を測っている。
「あの男は、こちらが崩れる一点を探している。今日はまだ、その一点が見つかっていない。だから何度でも突いてくる。日が暮れるまで、これが続く」
「日が暮れるまで、保つのか」
「保たせる。それが俺の仕事だ」
ザインは隊を見渡した。疲れ切った顔。血と泥にまみれた仲間。だが、まだ誰も折れていない。その目に、まだ戦う意志が残っている。
「皆、よく保った。あと半日だ。日が暮れれば騎兵は退く。それまで、ここを動くな。一人も欠けるな。生きて、夜を迎えるぞ」
「おう!」
兵たちが応えた。疲れた声だったが、芯はまだ折れていなかった。
頭上には、もう月はなかった。昼の白い空が、血の匂いのする斜面を冷たく見下ろしている。
ザインは肩の痛みをこらえ次の突撃に備えた。ヴァレクは必ずまた来る。今度はどこを突くのか。崩れる一点を敵将より先に自分が塞がねばならない。
セドが隣で槍を握り直していた。顔は青いが、目はもう逃げていない。何度も突撃を越えて、この少年も兵の顔になりつつあった。ザインはその横顔を一瞬だけ見た。守らねばならない。この子だけは、家で待つ三人のもとへ帰さねばならない。胸の奥でそう誓った。
斜面の下で、三たび蹄が鳴り始めた。




