第60話 受けて流す
鉄甲の壁が斜面を駆け上がってきた。
地が揺れた。馬の鼻息と蹄の轟きが、空気そのものを震わせる。重騎士の槍が、朝日を弾いて一斉に下がった。穂先が、ザインの隊へ向く。
「まだだ。引きつけろ」
ザインの声は低かった。兵たちが身を固くする。セドの槍が震えている。だが列は崩れなかった。
「コルネリア、右の塊だ!」
ザインが叫んだ。斜面の右側で密集した騎兵の脚を、コルネリアの蒼い焔が舐めた。馬が二頭、脚をもつれさせて転んだ。後続がそれに乗り上げ、右翼の突撃が大きく乱れる。
「今だ。前列、石突を立てろ!」
残る騎兵が隊へ突き刺さった。最前列の兵が弾かれる。だが斜面の勾配が馬の勢いを削いでいた。前哨戦のような、一突きで三人という威力はない。馬は急斜面に脚を取られ、勢いを失って立ち往生した。
「埋めろ。穴を埋めて、馬を岩場へ押せ!」
ザインの号令が走った。兵たちが穂先を揃え、立ち往生した馬を横へ横へと追い立てる。馬は岩場の方へ追い込まれた。狭い岩の間で、重騎士は身動きが取れなくなる。
「バルガ、ティム、岩場の口を締めろ!」
バルガとティムが岩場の入り口へ回り込んだ。追い込まれた騎士たちは、もはや突撃の勢いを失っている。馬を失えば、重い鎧はただの枷だ。歩兵の槍が、立ち往生した騎士を次々と地に落とした。
最初の突撃はしのいだ。
斜面の裾に倒れた馬と騎士が累々と転がっていた。鉄甲の重さがそのまま枷になっていた。立ち上がろうともがく騎士へ兵が群がり、その動きを封じる。地形がザインの読み通りに働いていた。急な斜面が馬の脚を奪い、岩場が騎兵の機動を縛った。武勇の差を、土地が埋めていた。
「やった……やったぞ!」
セドが声を上げた。生きていた。列は崩れていない。死人も、味方には数えるほどだった。
「喜ぶな。まだ始まったばかりだ」
ザインは斜面の下を見据えた。ヴァレク本人は、まだ突っ込んできていない。先に配下の一隊を放ち、こちらの守りを試したのだ。その読みの深さに、ザインは寒気を覚えた。
果たして斜面の下でヴァレクが静かに兵を立て直していた。乱れた一隊を退かせ隊列を組み直す。慌てる様子はない。最初の失敗をただ次の手の材料にしている。
ザインは敵将の動きから目を離さなかった。退かせた一隊の位置。新たに前へ出した騎兵の数。そのすべてが何かを語っていた。ヴァレクは右の岩場が固いと見た。ならば次は逆を突く。左の角だ。ティムに見張らせた、あの崩れやすい一点だ。
「ティム。左の角から離れるな」
ザインは声を飛ばした。
「次はそこへ来る。お前が最初の盾になる。耐えろ。すぐに俺が行く」
「は……はい!」
ティムの声が緊張に固くなった。だが逃げはしなかった。左の角へ、しっかと踏みとどまる。
「軍曹殿。敵将は、なぜ自分から突っ込んでこないんですか」
ティムが息を切らして尋ねた。
「強い奴ほど、急がない」
ザインは答えた。
「あの男は、こちらの守りの形を見ている。どこが固く、どこが脆いか。それを確かめてから、いちばん弱い一点へ、全力を叩き込んでくる。一度目の突撃は、そのための偵察だ」
「じゃあ、次は……」
「次が本番だ。今度はヴァレク自身が来る。気を抜くな」
兵たちの顔が再び引き締まった。つかの間の勝利の喜びは消え、緊張が戻ってくる。
ザインは岩場の高みのコルネリアへ目をやった。コルネリアが小さくうなずく。焔はまだ残っている。だが、無限ではない。次の一回を、どこで使うか。その判断が、勝敗を分ける。
頭上の二つの月が、ようやく朝の光に溶けて消えようとしていた。最後まで残った小さな月が、斜面を見下ろすように淡く光っている。
その薄れゆく月の下で、ザインは次の突撃の形を読もうとした。ヴァレクはどこを突いてくるか。固いと見せた右か。手薄に見える左か。
答えを出す前に斜面の下で再び蹄が鳴った。今度の先頭には鉄甲の影があった。
ヴァレクが槍を倒し、その穂先をまっすぐ左の角へ向けた。読みは当たっていた。だが当たったところで、来るものは来る。あの槍を、ティムは受けきれるのか。ザインは岩を蹴って左へ走った。
「ティム、退くなよ! 俺が行く!」
声が斜面に裂けて消えた。鉄甲の壁が、再び地を鳴らした。




