第58話 たき火の話
戦のない夜は、長い。
北の戦線はにらみ合いが続いていた。ヴァレクは無闇に攻めず、ザインの隊も谷口を固く守って動かない。互いに相手の出方を待っていた。
谷口の陣はわずかな焚き火の灯りだけが頼りだった。火を焚きすぎれば敵に位置を悟られる。兵たちは身を寄せ合い、薄い炎で凍えた手を温めていた。遠くで梟が鳴いた。森の闇は深く、その奥に敵がいると思うと眠りは浅くなる。
バルガが研いだ槍を膝に置き、低くいびきをかいて眠っていた。マルトは見張りに立っている。ティムは布にくるまって寝息を立てていた。古参も若兵も、つかの間の休息に身を委ねている。
その夜、隊のたき火を囲んでセドが口を開いた。
「軍曹殿は、どうしてそんなに強くなれたんですか」
「強くない」
ザインは火に枝をくべながら答えた。
「俺は誰より臆病だ。だから誰より考える。死にたくないからだ。それだけだ」
「臆病、ですか」
「お前も覚えておけ。戦場で胸を張る奴から死ぬ。背を丸めて、地面ばかり見ている臆病者が生き残る。生き残ったほうが、勝ちだ」
ガロが横で笑った。
「こいつの言うことは本当だぜ、坊主。俺はこいつと組んでから、一度も死にかけてねえ。いや、死にかけはしたか。けど、ちゃんと帰ってきた。それがこいつのすごいとこだ」
「ガロさんも、強いですよね」
「俺か? 俺はただの口の達者な槍兵だよ。けどな」
ガロが酒を一口あおった。
「こいつの隣にいると、なぜか死なねえ。不思議とな。だから俺はこいつから離れねえんだ」
セドは羨ましそうにその掛け合いを見ていた。ザインはふと尋ねた。
「セド。お前はなぜ兵になった。徴募を待たず、自分から志願したそうだな」
セドは少しためらってから答えた。
「家が、貧しくて。弟と妹が三人います。俺が兵になれば、給金が家に届く。それに……」
セドはふところから小さな木彫りを取り出した。粗い手つきで彫られた、小鳥の形をしていた。
「これ、いちばん下の妹がくれたんです。お守りだって。俺が彫り方を教えたら、こんなのを彫って返してきて。下手くそでしょう。けど、俺の宝物です」
火明かりの中で、その木彫りはいびつに笑っているように見えた。ザインはそれを静かに見た。
「それに?」
「軍曹殿みたいに、なりたかった。何もない村の貧乏人でも、戦場で名を上げられるって。あなたの話が、希望だったんです」
たき火がぱちりと爆ぜた。ザインは黙ってその言葉を受け止めた。重い言葉だった。自分の歩んだ道が、見知らぬ少年の希望になっている。
「名を上げるのもいい」
ザインは静かに言った。
「だが何より、生きて帰れ。お前の給金を待つ三人のためにも。死んだら名も給金も届かない。生きることが、まず一番だ」
「……はい」
セドは深くうなずいた。その目に、少し大人びた光が宿った。
火の輪の少し外で、コルネリアが二人を見ていた。ザインが立ち上がって水を汲みに行くと、コルネリアもそっと後をついてきた。
「あなた、あの子に優しいのね」
「昔の自分を見ているだけだ」
「そうかしら」
コルネリアは月明かりの中でほほ笑んだ。
「あなたは誰にだって、ああなのよ。死なせたくないって、いつも思ってる。だから皆あなたについていく。私も……そう」
その言葉の終わりが、夜風に溶けた。ザインはコルネリアを見た。蒼い月の光が、その横顔を淡く縁取っている。
「お前も、生きて帰れ。誰よりもだ」
「……ええ。あなたが隣にいてくれるなら」
二人はしばらく黙って、川面に映る月を見ていた。言葉は少なかった。だが通じるものがあった。
「ねえ、ザイン」
コルネリアがふいに口を開いた。
「この戦が終わったら、あなたは何がしたい」
ザインは少し考えた。考えたことのない問いだった。生き延びることばかりを考えてきて、その先を思ったことがなかった。
「分からない」
正直に答えた。
「だが、こうして月を見ていられる夜が、もっとあればいいとは思う。誰も死なずに、笑って酒を飲める夜が」
「……いいわね。それ」
コルネリアが小さく笑った。柄杓を手に、川の水をすくう。その横顔は、戦場にいるとは思えぬほど穏やかだった。ザインはその静けさを、束の間だけ自分の胸に仕舞った。
頭上に二つの月が昇っていた。大小ふたつの蒼い光が、つかの間の静けさを、優しく照らしている。
だがザインは知っていた。この静けさは長く続かない。ヴァレクは必ず動く。そのとき、このたき火を囲む顔のいくつが、欠けるのか。
その予感を、ザインは誰にも言わなかった。ただ火のそばで笑うセドの横顔を、目に焼きつけた。




