第56話 最初の槍
前哨戦は三日後に訪れた。
ザインの分隊は谷の入り口を守る歩兵中隊に組み込まれていた。任務は単純だ。王国軍の偵察隊を追い払い、谷へ近づけさせない。
「来ますね」
マルトが丘の陰から戻ってきて告げた。
「騎兵が二十ほど。こっちへ駆けてきます。先頭の鎧が、やけに分厚い」
「ヴァレクの手の者か」
ザインは身を低くして谷口を見た。冷たい風が枯れた草を波打たせる。その向こうから地を揺らす蹄の音が近づいてきた。
「槍衾を組む。三列だ。前列は膝をつけ、石突を地に立てろ」
ザインの声が走った。兵たちが慌ただしく隊形を整える。セドも列の中にいた。槍を握る手が白くなっている。
「セド」
ザインは短く呼んだ。
「隣のバルガを見ていろ。あいつの真似をすればいい。考えるな。体で覚えろ」
「は、はい!」
声がまた裏返った。バルガがちらりとセドを見て、ふっと笑った。
「坊主。最初の一回さえ越えれば、あとは楽になる。死にたくなけりゃ列を崩すな。それだけだ」
ザインは列の後ろへ目をやった。少し離れた岩陰にコルネリアが控えている。
「コルネリア。先頭の一騎が来たら、馬の脚を狙え。乗り手じゃない。馬だ」
「分かった。でも一度きりよ。詠唱が間に合うのは、最初の突撃の時だけ」
「それでいい。一度焼けば隊形は立て直せる」
コルネリアが杖を握り直した。その指先に蒼い焔が小さく灯る。ザインは前へ向き直った。
蹄の音が膨れ上がった。土煙の中から重騎士が姿を現す。馬は大きく、鎧は鈍く光り、槍は丸太のように太い。先頭の一騎がとりわけ大きかった。
その一騎が槍衾めがけて真っ直ぐ突っ込んできた。
「コルネリア、今だ!」
ザインの合図でコルネリアの杖から蒼い焔が走った。焔は先頭の馬の脚を舐めた。馬が嘶いて脚をもつれさせる。だが勢いは殺しきれなかった。倒れかけた馬体が、それでも惰性で突っ込んでくる。
「来るぞ。退くな! 石突を立てろ!」
ザインが叫んだ。重騎士の槍が、最前列の兵を弾き飛ばした。盾も槍もまとめて砕かれ、男が宙を舞う。馬体がそのまま列に突き刺さった。
悲鳴。骨の砕ける音。槍衾の一角が、ただの一撃で崩れた。
「埋めろ! 穴を埋めろ!」
ザインの号令で二列目が前へ出る。今度は数本の槍が騎士の馬を貫いた。馬が嘶いて倒れ、騎士が地に転がる。すかさずバルガが踏み込み、その喉元へ槍を落とした。
乱戦は短かった。馬を失った騎士は脆い。歩兵の数に押されて王国の偵察隊は退いていった。
だが谷口には味方の屍が転がっていた。最初の一撃で弾き飛ばされた、三人の兵。
セドが青ざめた顔で立ち尽くしていた。槍の穂先が震えている。
「……これが、戦」
「これが戦だ」
ザインは静かに言った。
「お前は列を崩さなかった。よくやった。死んだ三人はお前を守って前に立っていた。その分まで、生きろ」
セドは唇を噛んでうなずいた。涙はこらえていた。
「あの先頭の一騎」
ガロが汗を拭いながら言った。
「ありゃ手練れだったぜ。一突きで三人だ。あれがヴァレク本人じゃねえよな」
「違う」
ザインは退いていく騎兵の背を見据えた。
「あれは配下の一人だ。ヴァレク本人なら、あんなものでは済まない。これは挨拶代わりの一突きだ。本物はまだ、姿すら見せていない」
その言葉に隊の空気が重く沈んだ。たった一騎の配下に、槍衾の一角を砕かれた。ならば名将本人の槍は、どれほどのものか。
「焔を当てても、止まらなかった」
コルネリアが杖を握ったまま、悔しげに呟いた。
「脚は焼いた。それでも勢いだけで突っ込んできた。あの重さは、私の魔法じゃ受けきれない」
「お前のせいじゃない」
ザインは首を振った。
「お前が脚を焼かなければ、砕かれた列はもっと深かった。三人で済んだのはお前のおかげだ。次はやり方を変える。正面で受けるな。受け流す。地形を使う。真っ向勝負はあの男の土俵だ。そこで戦ってはいけない」
ザインの脳裏ですでに次の戦の絵図が動き始めていた。武勇では勝てない。ならば武勇が振るえぬ場所へ、敵を引きずり込む。それが自分の戦い方だ。
頭上に二つの月が昇り始めていた。まだ昼の名残の薄明の空に、大小ふたつの月が淡く浮かんでいる。
ザインはその月を一瞬だけ仰ぎ、それから死んだ三人の兵のもとへ歩み寄った。名も知らぬ兵だった。だが自分の隊で死んだ最初の兵たちだった。
その重みを、ザインは静かに背負った。これはまだ、長い章の始まりに過ぎなかった。




