第55話 北の戦線
カランドを発って五日。ザインたちは帝国北辺の戦線へ着いた。
ここは平原ではない。痩せた丘と、痩せた畑と、黒い針葉樹の森が延々と続く土地だった。空はいつも灰色で、風は針のように冷たい。
「寒ぃ土地だな」
ガロが肩をすくめた。
「南とは大違いだ。畑は石ばかり、人の顔も暗え。こんなとこを取り合って何になる」
「街道だ」
ザインは丘の上から北を指した。
「あの谷を抜ければ王国の穀倉に通じる。逆に王国から見れば、ここを抜かれると帝都への扉が開く。痩せて見えても要の土地だ」
「相変わらず地図が頭に入ってやがる」
ガロが呆れたように笑った。
行軍の列はゆっくりと丘を越えていく。足元の土は固く凍て、馬の蹄が乾いた音を立てた。道の脇には朽ちた砦の跡が見えた。かつてここでも戦があったのだ。崩れた石壁に苔が這い、誰のものとも知れぬ槍の柄が半ば土に埋もれていた。
「景気の悪ぃ眺めだ」
ガロが顎で砦跡を示した。
「ここで死んだ連中も、最初はきっと勝つつもりで来たんだろうな」
「だろうな」
ザインは短く答えた。返す言葉が見つからなかった。砦の跡はこの土地の戦の古さを物語っていた。何十年も帝国と王国はこの痩せた丘を奪い合い、そのたびに兵を土へ還してきた。
ザインの分隊は今や十六人に増えていた。軍曹となった証だった。古参のバルガ、足の速いマルト、傷の癒えたティム。そこへ新しい顔が幾人か加わっている。
その中に若い兵がいた。セドという。
「軍曹殿、あれが噂のセドですよ」
マルトが小声で言った。
「徴募されてまだ二月。けど妙に張り切ってましてね。軍曹殿の話を聞いて、どうしてもこの隊に入りたかったとか」
「俺の話?」
「徴募兵から軍曹まで上がった男がいるって。北の村じゃちょっとした噂みたいで」
ザインがそちらを見ると、セドははっと背筋を伸ばした。
「セド・ヴァロウであります! 軍曹殿、自分はあなたの隊で戦えて光栄です!」
声が裏返っていた。頬はまだ少年の丸みを残している。隊列の端でひとり、ばかに力んでいる。
ザインはその姿に、見覚えのある何かを感じた。徴募された日の、震えながら槍を握った自分。ふらつきながら隊列を歩いた、あの頃の自分だ。
「力むな。死ぬぞ」
ザインは短く言った。
「は……はい!」
「肩の力を抜け。槍は握りしめるな。怖いのは当たり前だ。怖いと知っている兵が、いちばん長く生きる」
セドはぽかんと口を開けた。それから何かを噛みしめるように、深くうなずいた。
「そういうもの、なんですね」
「そういうものだ」
ガロが横でにやにやしている。
「おいおい軍曹殿、新兵にやけに優しいじゃねえか。昔のお前を思い出したか?」
「うるさい」
その夜。野営の焚き火を囲みながら、バルガがぽつりと言った。
「軍曹。ここの相手は厄介だぞ」
「聞いている。北方軍の重騎士隊長だな」
「ヴァレクだ。鉄甲のヴァレク。王国でも名の知れた武人だ。先陣を任されるたびに、ぶつかった帝国の隊を片端から砕いてきた。槍働きじゃ右に出る者がいねえ」
バルガの声は低かった。古参のこの男が警戒を口にするのは珍しい。
「ロウガとは違う種類の怖さだ。ロウガは采配で殺す。ヴァレクは、己の槍で殺す。真っ向からぶつかって、誰よりも強い」
火の向こうでコルネリアが顔を上げた。
「噂は私も聞いたわ。重騎士をまとめて率いる男だって。馬ごと突っ込んでくる槍は、生半可な陣形じゃ受け止められないそうよ」
「お前の焔なら止められるか」
ザインが問うと、コルネリアは少し考えてから首を振った。
「一度なら焼ける。でも二度目は間に合わない。あの距離を詰める速さは、私の詠唱より速いもの」
その声には珍しく硬さがあった。攻撃魔法の使い手であるこの女が、間に合わないと言う。その重みをザインは黙って受け止めた。
「武人、か」
ザインは火を見つめた。読みで勝つ自分とは、対極の男だ。
「軍曹殿なら、勝てますよね」
セドが目を輝かせて言った。無邪気な信頼だった。ザインは何も答えなかった。
頭上に二つの月が昇っていた。大小ふたつの蒼い光が、痩せた丘と黒い森を冷たく照らしている。
その光の下でザインは、まだ顔も知らぬ武人の名を、胸に刻んだ。
鉄甲のヴァレク。次に越えるべき壁の名だ。




