第52話 退き際の名手
市街戦が続く中、ザインは奇妙なことに気づいた。
王国軍の抵抗が妙に整然としているのだ。崩れたはずの軍が混乱に陥らず、街の中を計画的に後退していく。
「……またか」
ザインは唇を噛んだ。
「ガロ、見ろ。敵がただ逃げてるんじゃない。退きながら、要所要所で追撃をわざと食い止めてる。本隊を無事に逃がすためだ」
「待てよ。逃げるのにわざわざ追撃を食い止めるって、どういうことだ?」
ガロが首をかしげた。
「普通の負け戦なら我先にと逃げて、総崩れになる。だがロウガの軍は違う。一部の兵が命がけで殿に残って、追っ手を防ぐ。その間に本隊をまるごと逃がす。統率が桁違いなんだ」
「殿に残るって……それ、死ぬってことじゃねえか」
「ああ。だがその犠牲で何千の本隊が助かる。残酷だが見事な采配だ」
「整然と、退却してるってことか? 城が落ちかけてるのに?」
「ロウガだ」
ザインの声に確信があった。
「城が落ちると見るや、無理に守らず、兵をまとめて退かせてる。負け戦を最小の損害で切り上げる。退き際の、名手だ」
帝国軍はカランドを制圧しつつあった。だが王国軍の主力はロウガの巧みな采配で、続々と西門から脱出していく。城は取れても敵の軍は取り逃がす。
「追撃しないんですか」
ティムが悔しげに尋ねた。
「下手に追えば、ロウガの思う壺だ。退却の殿にまた罠を仕込んでる。深追いすれば、こっちが手痛い反撃を食らう」
ザインは西門の方を見据えた。
退却していく王国軍の中に、一際、落ち着いた采配を振るう影があった。遠目にもその動きの、無駄のなさが伝わってくる。あれがロウガ。
「あれが噂の名将か……」
マルトが呆然と呟いた。
「負けてるのにぜんぜん、慌ててない。むしろこっちが手玉に取られてるみたいだ」
「そうだ。城は取られても軍は失わない。次の戦のために兵を温存してる。今日負けても明日また戦える。それがロウガの強さだ」
ザインの声には敵への、隠しようのない敬意が滲んでいた。憎しみではない。いつか超えたいと願う、好敵手への、純粋な憧憬に近かった。
その時、不思議なことが起きた。
退却の指揮を執るその影が、ふとこちらを――水路を断ち、壁を崩した帝国軍の側を、まっすぐに見据えた気がした。まるで「見事だった」とでも言うように。
ザインの背筋を震えが走った。
敵将に認められた。そんな気がした。退却戦で知恵を競い、城攻めで再びぶつかった、その相手が今、自分の働きを確かに見ていた。
「ザイン。お前、なんか、嬉しそうだな」
ガロが訝しげに言った。
「敵将に見られて嬉しいって、変な奴だな」
「……変かもしれない。だがあれだけの将に、自分の戦を見てもらえた。それが不思議と、誇らしいんだ。いつか、あの男と、正面から競う。その日のために俺は強くなる」
ガロは呆れたようにしかしどこか嬉しそうに笑った。
「お前、本当に戦が好きなんだか、嫌いなんだか、分からねえな」
ザインは消えていくロウガの影を、最後まで見送った。
今日は城を取った。だがロウガは軍を温存して、無傷で退いた。勝ったのか、負けたのか。単純には言えない戦だった。
「次に会う時はもっと大きな戦場だろう」
ザインは低く呟いた。その日のために自分はもっと多くを学び、もっと強くならねばならない。宿敵の存在がザインをさらに高みへと駆り立てていた。
「いつか、必ず」
ザインは低く呟いた。
「正面から、あんたと采配を競う。地形の罠でも城の守りでもなく、本物の勝負で」
ロウガの影はやがて西門の向こうへと消えていった。王国軍の主力をごっそりと連れて。
「逃したか……」
ガロが悔しげに言った。
「だが城は取った。それで十分じゃねえか」
「ああ。今日はそれでいい」
ザインは頷いた。だがその胸には宿敵を取り逃がした、苦い思いが残っていた。
頭上で二つの月が戦塵の向こうに霞んでいる。
「なあ、ザイン」
バルガが、煙管をくゆらせながら言った。
「お前は、ロウガを憎んじゃいねえな。むしろ、好いてるみたいだ」
「憎んでない。あの男は、俺が目指す高みにいる。憎むより、追いつきたい。超えたい。それだけだ」
「……変わった奴だ。だが、そういう奴が、一番伸びる。十年見てきた俺が言うんだ。間違いねえ」
カランドは落ちた。だがロウガという壁は、まだ、ザインの前に高くそびえ立っていた。




