第4話 最初の血
穂先が肉に潜り込む感触があった。
訓練で藁束を突いた手応えとは、まるで違っていた。
硬く、そして同時にぞっとするほど柔らかい。骨に当たって逸れ、何かを裂き、温かいものが柄を伝って手首まで流れてくる。
若い王国兵の目が信じられないという色に染まった。
口が動いた。声にならない言葉。母を呼んだのかもしれない。やがてその目から光が抜け、男は膝から崩れて泥に沈んだ。
ザインは槍を引き抜いた。
抜く時、刃が骨に引っかかる感触があった。それを振り払うようにザインは柄を強く引いた。ぬめった血が指の間を伝う。
手が震えていた。だが立ち止まる暇はなかった。
「ザイン! 右だ!」
ガロの叫びが鼓膜を打つ。
ザインは身を反転させ、横から来た二人目の穂先を、柄で払った。
考えるな。生き残れ。今はただ生き残れ。
頭の芯だけが氷のように冷えたまま、体が動き続けた。
払い、突き、踏み込み、また払う。隣のガロと背を合わせ、二人で小さな円を守る。誰かの血を浴び、自分の汗と混ざって視界が滲む。
戦場には訓練で習った美しい型など、何もなかった。
あるのは泥と、悲鳴と、誰かの臓腑の匂いと、ただ手当たり次第に槍を振るう混沌だけだ。
誰が敵で誰が味方かも一瞬ごとに見失いそうになる。残っているのは隣にガロの背があるという、それだけの確かさだった。
どれほどの時が流れたのか、分からなかった。
気づけば、王国兵の抵抗が崩れていた。
数で押し負けた彼らは村の奥へ、あるいは丘の裏へと潰走し始めていた。バルガの中隊が勝ったのだ。
角笛が今度は勝利を告げて鳴った。
ザインは槍にすがるようにして立っていた。
足元には最初に突いた若い兵が倒れている。見開かれたままの目が灰色の空を映していた。もう二度と、動かない。
胃の底から、熱いものが込み上げた。
ザインは数歩よろめいて家の壁に手をつき、激しく嘔吐した。
豆のスープと黒パン。今朝、生き延びるために胃へ詰め込んだものが、すべて泥の上にぶちまけられる。
手の震えが止まらなかった。
殺した。人を殺した。
名取真として三十一年。標的を撃つ訓練は積んだ。点数をつけられる、紙の的を。だが生きた人間の目から光が消える瞬間を、この手で作り出したのは初めてだった。
その重さは想像していたどんなものとも違った。
数字でも点でもない。たった今まで息をしていた一人の人間。それを自分が消した。あの恐怖に見開かれた目を、自分はこの先、何度も夢に見るのだろう。
「……吐けるうちは、まだいい」
背後で声がした。
振り返ると、コルネリアが立っていた。戦場では杖を構えていたはずの彼女が、今は静かにザインを見下ろしている。
その軍服の裾には返り血ではない焦げ跡があった。彼女もまた、後方から魔法で戦っていたのだ。
「初めての顔ね」
コルネリアは責めるでもなく、慰めるでもなく言った。
「吐いて、震えて、それでいい。昨夜あなたに言った通りよ。忘れられないって事は、まだ人間だっていう証」
ザインは口元を拭い、彼女を見た。
「……あんたは、吐かなかったのか」
「最初は吐いた。三日、何も食べられなかった」
彼女は遠くを見るような目をした。
「今は吐かない。慣れた。慣れてしまった。それがいい事なのか、私には分からないけれど」
風が焦げた村の匂いを運んできた。
ザインは倒れた若い兵にもう一度目をやった。
敵だった。突かなければ、自分が死んでいた。それは事実だ。
だがそれでも。
この男にも村があり、名があり、帰りを待つ誰かがいたのかもしれない。その全部を自分は一突きで消した。
ザインは静かに膝を折り、男の見開かれた目を指でそっと閉じてやった。
誰に教わった作法でもなかった。ただそうせずにはいられなかった。
「妙な奴ね」
コルネリアが小さく呟いた。だがその声に嘲りはなかった。むしろかすかな何かが滲んでいた。
「ほとんどの兵は、初めて殺した相手の顔なんて、見ようともしない。見ないようにする。その方が、楽だから」
彼女はそれだけ言うと、踵を返した。
「立てるなら、行きましょう。まだ、戦は終わっていない」
二つの月はまだ戻らない。
ザインは槍を杖にして、立ち上がった。
勝者の側に身を置いたまま、初めて奪った命の重さを背に負って、ゆっくりと歩き出す。
戦はまだ始まったばかりだった。




