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第35話 推薦

 ある日、ザインはドレクの天幕に呼ばれた。


 軍曹はいつになく改まった顔で、ザインを正面に座らせた。卓の上には一枚の書状が置かれている。


「お前を伍長に推薦する」


 ドレクは単刀直入に言った。


「ラーゲンでの働き。谷の伏兵を見抜いた読み。補給を救った間道。二重罠からの立て直し。どれも一兵卒の働きじゃない。お前は隊を率いる器だ。俺はそう見ている」


 ザインはその言葉を静かに受け止めた。


 伍長。それは正式に部下を持つ、最初の階級だった。これまでは斥候隊の長といっても、あくまで非公式の役目に過ぎない。伍長になれば、軍の制度の上で人を率いることになる。


 これまでザインは非公式の長に過ぎなかった。皆が従ってくれたのは、その読みを信じてくれたからだ。だが伍長になれば、制度がそれを裏づける。命令には軍の権威が伴う。自由は減り、責任は増す。それでもその立場でしか守れないものがあった。


「……ありがとうございます」


「だが喜ぶのは早い」


 ドレクは太い眉を寄せた。


「推薦したからといって、すんなり通るわけじゃない。お前は平民の徴募兵だ。この軍には平民が士官の階段を上るのを、面白く思わん連中がいる」


 軍曹の声が低くなった。


「特にヴェイル将軍の派閥だ。奴らは家柄と血筋で軍を回している。平民が功で上がってくるのを、自分たちの権威への脅威と見る。お前の推薦にも必ず横槍が入る」


 ザインは頷いた。


 この世界の身分の壁を、これまでも肌で感じてきた。将校の天幕で浴びた、あの侮りの視線。功を立てても生まれが平民というだけで、低く見られる。それがこの軍の現実だった。


 同じ功を立てても貴族の子弟ならとうに士官になっている。平民というだけでその階段は何倍も急になる。理不尽だった。だがザインはその理不尽に憤るより、淡々と乗り越える道を選んだ。怒りは判断を鈍らせるだけだ。


 いつか、この壁そのものを内側から変えたい。平民でも功さえあれば認められる軍に。だがそれは遠い夢だった。今はまず目の前の一段を上る。怒りでも理想でもなく、ただ着実に。それがザインの選んだ歩み方だった。


「壁があるのは覚悟しています」


 ザインは静かに言った。


「ですが俺は地位が欲しくて働いてきたわけじゃありません。兵を生かすためです。伍長になれば、もっと多くを生かせる。それだけが理由です」


 ドレクはザインをじっと見た。


「……お前のそういうところが俺は気に入っている。地位そのものを欲しがる奴は、地位を得た途端に腐る。だがお前は違う。お前にとって、地位は手段だ。守るための、な」


 ザインはその言葉を深く胸に刻んだ。地位は手段。守るための。まさに自分の思いを言い当てられた気がした。この軍曹はザイン自身よりもザインの本質を見抜いていた。


 軍曹は書状を手に取った。


「数日後、上層部で推薦の審議がある。ヴェイル派がお前を試そうとするだろう。下手をすれば、難癖をつけて潰しにかかる。だが俺は引かん。お前の働きは本物だ。それを上に認めさせる」


 ザインは深く頭を下げた。


 ドレクという男は叩き上げの軍曹だった。家柄もなく、自分の力だけでここまで上がってきた。だからこそ、平民が功で這い上がる道を、本気で開こうとしてくれている。その恩をザインは胸に刻んだ。


「俺も昔はお前と同じだった」


 ドレクがぽつりと言った。


「貧しい村の出でな。武勲を立てても貴族の上官に手柄を横取りされた。それでも腐らずに食らいついて、ここまで来た。お前を見てると、昔の自分を思い出す。だから潰させはしない」


 その言葉にザインは胸が熱くなるのを感じた。


 天幕を出ると、夜空に二つの月が昇っていた。


 大小ふたつの蒼い光が、戦野の陣を静かに照らしている。


 伍長への道。その入口にザインは今、立っていた。だがその先には身分という見えない壁が、立ちはだかっている。その壁を越えなければ、守れる命の数は増えない。


 ザインは月を見上げ、静かに拳を握った。試されるなら受けて立つ。それだけだった。



 守りたいものがある。仲間がいる。コルネリアがいる。傷ついたティムがいる。彼らをもっと確かに守れる立場へ。そのための一歩ならどんな壁でも越えてみせる。ザインの胸に静かな決意が宿っていた。

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