第30話 ロウガの名
その夜の軍議でザインは敵将の名を知った。
ドレクに呼ばれ、斥候としての報告に加わった時のことだった。天幕には中隊長や、上の将校も顔を揃えていた。平民の徴募兵が同席するのは、異例のことだった。
居並ぶ将校たちの視線が、ザインに集まった。値踏み、侮り、わずかな好奇。平民が将校の天幕に立つだけで、これだけの感情を浴びる。この軍の身分の壁をザインは肌で感じた。だが臆してはいられない。背筋を伸ばし、まっすぐ前を見た。
「谷の伏兵を読んだのは、この斥候か」
将校の一人がザインを値踏みするように見た。
「は。地形と、退却の足取りから、罠と判断しました」
「ふん。新兵にしては、目が利く」
将校は鼻を鳴らしたが、その目にはわずかな関心が宿っていた。やがて地図の一点を指して言った。
「お前が読んだあの采配は、ロウガのものだ」
ザインはその名を初めて聞いた。
「王国の名将、ロウガ。退却戦と地形の扱いにかけては、大陸でも並ぶ者がいない。今回の後退も、奴が殿を指揮している。お前が谷を見抜かなければ、追撃軍は痛手を負っていた」
ロウガ。ザインはその名を胸に刻んだ。
谷の斜面の上から見下ろしていた、あの鋭い影。退却を装い、地形を選び、追う者を陥れる采配。あれがロウガだったのか。並の将ではないと感じた直感は、間違っていなかった。
退却を攻撃に変える将。逃げながら、追う者を狩る将。そんな芸当ができる者は、大陸広しといえど数えるほどだ。その一人と、自分は今日、知恵を競い合った。背筋を誇りとも恐怖ともつかぬものが走った。
「この戦は、長くなる」
将校が地図を睨みながら言った。
「ラーゲンでの引き分けで、どちらも決め手を欠いた。これから戦は、街道と補給線を巡る長い駆け引きになる。ロウガがいる限り、王国は容易には崩れん。お前のような目を持つ斥候が、これからますます要る」
ザインはその言葉の重みを噛みしめた。一度の会戦で終わる戦ではない。これは大陸の覇権を賭けた、長い消耗の始まりだった。
天幕の外でザインは大きく息を吐いた。長い戦になる。ならば生き延びるしかない。生き延びて、もっと上へ。そこでしか、守れる命の数は増えない。ザインは自分の進むべき道を改めて見据えた。
軍議の後、ザインは天幕の外で夜風に当たった。
ガロが握り飯を片手に近づいてきた。
「将校の集まりに、新兵が呼ばれるなんてな。お前、いよいよ大物だ」
「呼ばれただけだ。何者でもない」
ザインは苦笑したが胸の内は別のことで占められていた。
ロウガ。その名の将と、自分は今日、谷を挟んで知恵を競った。そして辛うじて読み勝った。だがそれはたまたまだ。次も勝てる保証はない。あの采配の鋭さを思い出すと、背筋が冷えた。
いつか、まともにぶつかる。その時、自分は読み勝てるのか。地形の罠を見抜くだけでなく、何千の兵を率いて、あの将と采配を競う日が来る。今のザインにはまだ遠い高みだった。だが目指すべき頂が見えた気もした。
「どうした。浮かない顔だな」
ガロが握り飯をかじりながら言った。
「強い敵がいる。それを、知った」
ザインは夜空を見上げた。
「いつか、まともにぶつかる気がする。今日みたいに、地形を読み合うだけじゃ済まない、本物の勝負を」
「お前なら、勝てるさ」
ガロはあっさりと言った。
「俺は槍のことしか分からん。だがお前の目は、本物だ。あの軍曹も、将校も、それを認めてる。お前が読めば、俺たちは生きて帰れる。それだけ信じてりゃ、十分だ」
その言葉は不思議とザインの肩を軽くした。
一人で背負っているわけではない。隣にガロがいて、後ろにバルガやティムがいて、コルネリアがいる。ロウガがどれほどの将であろうと、自分は一人で戦うのではなかった。
ロウガが一人で大軍を動かすなら自分は仲間とともに戦う。一人の天才に七人の絆で立ち向かう。それがザインの戦い方だった。武勇でも血筋でもない。人を信じ、人に信じられる。それだけが自分の武器だった。
東の空に二つの月が昇っていた。
大小ふたつの蒼い光が、戦野の陣を静かに照らしている。その光の下でザインは遠い宿敵の名を、もう一度胸の奥で繰り返した。
ロウガ。いつか必ず、その名と正面から向き合う日が来る。その予感だけは確かだった。




