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第29話 追う者

 翌日から、戦は新たな局面に入った。


 ラーゲン平原での消耗戦の後、王国軍は西へ後退を始めた。帝国軍はこれを追う。逃がせば、敵は態勢を立て直し、再び牙を剥く。今が戦局を押す好機だった。


 ザインの斥候隊は追撃軍の先頭に立った。


 退く敵の動きを読み、罠を察知し、本隊を安全に導く。会戦で左翼を守り切った働きが認められ、斥候隊の役目はいっそう重くなっていた。


 だが退く敵を追うのは、攻めるより難しい。


 ザインはそれを肌で知っていた。背を見せて逃げる軍は、必ず殿に手練れを置く。追う側が勢いに任せて深追いすれば、その殿に食い破られる。逃げる敵ほど、油断ならない。


 前世の知識がそれを裏づけていた。退却戦こそ、将の力量が最も問われる。崩れた軍をまとめ、追う者を誘い込み、最小の犠牲で最大の打撃を与える。それができる将は攻めの将より遥かに恐ろしい。ザインは神経を研ぎ澄ませた。


 半日追ったところでザインは足を止めた。


 街道が谷間に差しかかっている。両側に切り立った斜面。底を一本の道が通る。追撃の勢いのまま進めば、この谷を一気に抜けたくなる地形だった。


 ――誘っている。


 ザインの背筋が冷たく粟立った。


 退く敵がわざわざこんな谷を通った。しかも退却にしては足取りが妙に整っている。慌てて逃げる軍の跡ではない。これは追う者をこの谷へ引き込むための、作られた逃げ道だ。


 ザインは地面に膝をつき、敵の足跡を検めた。隊列の乱れがない。荷を捨てた跡もない。本当に追い詰められた軍なら必ず何かを投げ捨てて逃げる。だがこの跡にはその慌てがなかった。整然と退く。それは余裕のある証だった。


「マルト。上流の斜面まで、見えるところまで探ってこい。茂みの陰に人の影がないか。決して見つかるな」


 マルトが身を低くして駆けていく。しばらくして戻った彼の顔は、青ざめていた。


「い、いました。斜面の上、両側の茂みに、びっしりと……数えきれません」


 ザインの読みは寸分違わなかった。


「バルガ。あんたの目で見て、どう思う」


 ザインは古参に問うた。


 バルガは谷の斜面を険しい目で睨んだ。


「……気に入らんな。退く敵の足跡が、綺麗すぎる。それに、斜面の上の茂みだ。風もないのに、葉の向きが乱れてる。何かが、潜んでる」


「俺も、そう読む」


 ザインは頷いた。古参の目と、自分の読みが同じ危険を指していた。


「この谷には、伏兵がいる。追撃軍を引き込んで、上から叩く気だ。退却と見せかけた、罠だ」


 ザインはすぐに本隊へ伝令を走らせた。谷へ入るな、と。


 追撃の足が谷の手前で止まる。


 しばらくして、痺れを切らした伏兵が、斜面の上に姿を現した。獲物が罠にかからないと悟り、隠れている意味を失ったのだ。その数は決して少なくなかった。谷へ入っていれば、追撃軍は上から射すくめられ、大きな損害を出していた。


 本隊から、安堵のどよめきが伝わってきた。ザインの一読が数百の兵を谷の罠から救ったのだ。ドレクが馬を寄せ、短く頷いてみせた。言葉はない。だがその目に確かな信頼が宿っていた。


「……見事に、読まれたか」


 斜面の上で敵の指揮官らしき影が、こちらを見下ろしていた。


 遠目にもその采配の鋭さが伝わってくる。退却を装い、地形を選び、追う者を陥れる。並の将ではない。ザインはその影から目を離せなかった。


 追う者を誘い、地形を選び、こちらの心理まで読んでくる。その采配にはこれまで相手にしてきた将とは違う、底知れぬ知性があった。読み合いに勝ったのは、紙一重だった。一つ判断を誤れば、谷に呑まれていたのはこちらだ。


 ザインは自分の手のひらが汗ばんでいるのに気づいた。読み勝った。だが心は晴れない。あの将は今日の失敗から、必ず学ぶ。次はもっと巧妙な罠を仕掛けてくるだろう。


 強敵と知恵を競うことの、痺れるような緊張。それは恐怖であり、同時に奇妙な高揚でもあった。


 追撃はここまでとなった。深追いはあの敵将の思う壺だ。ザインは本隊にこれ以上の追撃を控えるよう進言した。将校たちも谷の伏兵を見て、その判断に従った。引き際を知ること。それもまた、戦の知恵だった。


 敵の影はやがて静かに兵を退かせ、谷の奥へ消えていった。


 二つの月は昼の空に隠れて見えない。


 だがザインの胸には名も知らぬ敵将の、鋭い采配の感触が冷たく残っていた。あれはこれまでの敵とは違う。いつか、正面からぶつかる気がした。

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