第28話 戦野の夜
その夜、帝国軍は平原に陣を布いたまま、傷を癒した。
篝火のあちこちで軍医と兵が負傷者の手当てに追われている。呻き声と、血と薬草の匂い。勝利の喜びはどこにもなく、ただ生き延びた者の疲労だけが、陣を覆っていた。
篝火の灯りの中を担架が幾度も行き来する。助かる者と、助からぬ者。その選別が軍医の手によって淡々と進められていく。生と死の境がこれほど近い夜もなかった。ザインはその光景から目を逸らさなかった。
ザインは斥候隊の天幕で、武具の手入れをしていた。
刃こぼれした槍を砥石で研ぐ。明日もこれを使う。手入れを怠れば、その槍が次に自分を裏切る。疲れていてもこれだけは欠かせなかった。前世から続く、染みついた習慣だった。
手を動かしていると、心が少し落ち着く。戦の興奮も死の恐怖も単調な作業の中に溶けていく。名取真だった頃も任務の後はこうして装備を整えた。体に染みついた段取りだけが、乱れた心を繋ぎ止めてくれた。
ふと顔を上げると、天幕の外にコルネリアが立っていた。
彼女はいつものように陣の喧騒から離れた場所にいた。だが今日はザインたちの天幕の、すぐ近くだった。フードを下ろした横顔が、篝火に照らされている。
「眠れないのか」
ザインが声をかけると、コルネリアは小さく頷いた。
「魔法を使った夜は、いつもそう。体は疲れているのに、頭が冴えてしまう」
彼女はザインの隣に腰を下ろした。少し間を置いて、ぽつりと続ける。
「……今日、初めてだった。誰かに守られて魔法を使ったのは。いつも私は、一人で前に立って、一人で撃って、一人で倒れていた」
ザインは砥石を動かす手を止めた。
「それが、当たり前だと思っていたのか」
「ええ。魔法使いは、貴重だけれど孤独よ。みんな私の力を欲しがる。でも、私自身を気にかける人はいなかった。だから、自分でも自分を、ただの道具だと思っていた」
火が彼女の横顔を照らしていた。痩せた頬。感情を抑えた瞳。その奥に長く閉じ込められてきた孤独が、静かに沈んでいる。ザインは研いでいた槍を脇に置いた。
その声に自嘲はなかった。ただ長く続いた事実を、淡々と述べているだけだった。だからこそ、その言葉は重かった。
「今日は、違った」
コルネリアは膝を抱えた。
「あなたが、私の前に立った。詠唱の間、敵を一歩も近づけなかった。誰かが私のために傷を負うのを見たのは、初めてだった。……どう受け止めればいいのか、分からない」
ザインはしばらく黙っていた。
彼女の戸惑いが痛いほど伝わってくる。人として扱われることに、慣れていない。その不器用さが前世で誰の記憶にも残らず生きていた自分と、どこか重なった。
前世の自分も誰かに必要とされた実感を持てぬまま生きていた。命じられた任務をこなし、終われば忘れられる。コルネリアの孤独は形は違えど、その虚しさと地続きだった。だからこそ、放っておけなかった。
ザインは自分の水袋を彼女に差し出した。コルネリアは少し驚いた顔をしたが、黙って受け取り、一口飲んだ。その小さなやり取りひとつが、彼女には新鮮なものに映ったらしい。
「受け止めなくていい」
ザインは静かに言った。
「ただ、覚えておけ。お前は道具じゃない。俺の隊の一人だ。守られて当たり前の、人間だ。それだけだ」
コルネリアはザインの横顔を見つめた。
何か言いたげに唇が動き、だが言葉にはならなかった。代わりに彼女はほんの少しだけ、肩の力を抜いたように見えた。
二人の頭上に二つの月が昇っていた。
蒼い光が戦野の天幕を静かに照らしている。その光の下で寡黙な魔法使いは初めて誰かの隣で夜を過ごしていた。
「……ねえ」
しばらくの沈黙の後、コルネリアがぽつりと言った。
「あなたは、なぜそこまでして人を死なせたくないの。戦場では、誰かが死ぬのは当たり前なのに」
「当たり前にしたくないからだ」
ザインは即座に答えた。
「一人の死を当たり前だと思った瞬間、人は人を駒みたいに使い始める。そうなったら、戦の意味すら見失う。だから俺は、数えるのをやめない。一人ずつ、名前で」
コルネリアは長い間、その横顔を見つめていた。やがて視線を膝に落とし、小さく呟いた。
「……変な人。でも、嫌いじゃない」
戦はまだ続く。だが今夜だけはコルネリアの孤独にわずかな温もりが差していた。




