第25話 開戦
夜明けとともに大地が鳴った。
ラーゲン平原の東から王国の大軍が押し寄せてくる。地平を埋める槍の波。打ち鳴らされる戦鼓。その響きが足の裏から腹の底まで震わせた。
その音の壁が、近づくほどに高くなる。何万の足が地を踏み、何万の喉が雄叫びを上げる。耳が痛むほどの圧だった。新兵の多くが顔を青ざめさせ、槍を握る手を震わせている。逃げ出したくなる衝動を、誰もが必死に押し殺していた。
今まで生きてきたどんな戦とも、規模が違う。何万という人間がこれから数刻のうちに殺し合う。その重さにザインは奥歯を噛みしめた。
ザインは左翼の端で槍を構えた。
隣にガロ。後ろにバルガとティム。そして斥候隊の中央にコルネリアがいる。
昨夜のうちにザインは陣形を決めていた。コルネリアを円の中心に置き、七人で周囲を固める。詠唱の間、彼女には何もできない。その無防備な時を誰にも触れさせない。それが今日の役目だった。
円という陣は、脆くもあり、堅くもある。一人が崩れれば全体が崩れる。だが互いの背を信じ合えれば、数の不利を覆せる。この数日で築いた七人の絆を、ザインは今日、この大会戦に賭けていた。
「来るぞ」
バルガが低く言った。
王国軍の第一波が土煙を上げて左翼に殺到する。槍を構えた歩兵の壁が、こちらの壁へ正面からぶつかってきた。
衝撃が隊列を揺らした。
ザインは足を踏ん張り、穂先を払った。一人を退け、また一人。だが個の働きで止められる数ではない。押される。じりじりと後ろへ。汗が目に流れ込み、視界が滲んだ。
突いた手応えが、腕に重く残る。だが感傷に浸る間はない。一人倒せば、その後ろからまた一人が湧いてくる。波だ。人の波が、途切れることなく押し寄せてくる。
前後左右が、人と鉄で埋まっていた。味方の背、敵の顔、振り下ろされる刃。その全てが間近にひしめき、一歩も退く余地がない。土はすでに踏み荒らされ、足元はぬかるんでいる。倒れれば、もう二度と立てない。踏まれて終わる。それが大会戦の現実だった。
「コルネリア。まだか」
「もう少し」
彼女の声は戦場の喧騒の中でも、不思議なほど静かだった。フードの下で唇が動き、低い詠唱が紡がれていく。その横顔はまるで戦場にいないかのように落ち着いていた。
その間も敵は押し寄せる。ザインの円が削られていく。
「持ちこたえろ! 彼女が撃つまでだ!」
ザインは声を張った。
ティムが穂先を受け、よろめいた。すかさずガロが前へ出て、その敵を突き落とす。バルガが古参の重い槍で、横から来る一団を薙ぎ払った。
七人が必死に円を保つ。誰かが倒れれば、そこから円は破れる。一人ひとりが隣の命を背負っていた。
その中心でコルネリアの杖の先に蒼い光が灯り始めた。
空気がぴりりと震える。前世では決して見たことのない、現実離れした光景だった。だが今、その蒼い焔こそが左翼を救う一手だった。
「――退いて」
コルネリアが初めて声を張った。
ザインは反射的に隊を伏せさせた。考えるより先に体が動く。彼女の声に迷わず従った。
次の瞬間、彼女の杖から蒼い焔の奔流が放たれた。
炎は唸りを上げ、押し寄せる王国兵の最前列を一気に薙ぎ払った。悲鳴。崩れる隊列。さっきまでの勢いが嘘のように消える。
左翼の崩壊は寸前で食い止められた。
ザインは身を起こし、肩で息をした。
炎の余熱が頬を撫でる。焦げた匂いが鼻を突いた。たった一撃でこれだけの数が倒れる。魔法の力をザインは初めて間近で思い知った。同時にその力を一人で背負う彼女の重さも。
一撃で戦況を覆す力。だが、その力は彼女一人の体から絞り出される。撃つたびに命を削るような、危うい力だった。誰もが魔法使いを羨む。だがその内側にある消耗を、ザインは初めて目の当たりにしていた。
だがコルネリアは膝をついていた。
詠唱と発動で力を使い果たしている。今の彼女は立つのもやっとだ。最も無防備な時だった。
「下がれ。次の詠唱まで休ませる」
ザインはコルネリアを円の奥へ庇い、再び槍を構えた。
頭上で二つの月が朝の光に薄れていく。
戦はまだ始まったばかりだった。第二波がすでに土煙の向こうに見えている。
ザインは乾いた唇を舐めた。まだ、終わらない。この戦は、一日で決まるような小さなものではない。長い一日が、ようやく始まったばかりだった。




