第23話 本軍
二日後、中隊はラーゲン平原の縁に立った。
ザインは丘の上からその光景を見下ろし、息を呑んだ。
平原を軍が埋め尽くしていた。
帝国の本軍だった。万を超える兵が平原一面に陣を布いている。槍の穂先が地平まで林立し、無数の天幕が見渡す限りに連なっていた。
今まで見てきた中隊の数百とは、桁が違った。
地平の果てまで人と鉄が埋め尽くしている。陽光を弾く甲冑の波。風にはためく無数の軍旗。隊ごとに色を違える幟が、平原を巨大な織物のように彩っていた。馬の群れが土煙を上げて移動する。その一団だけで中隊の何倍もの数があった。
ザインは自分という存在が、ふいに小さく感じられた。これまで七人を率い、数百を導いてきた。だがこの光景の前では、それは砂粒のような働きだった。
「……これが、本軍か」
ガロが呆然と呟いた。
「いったい何人いるんだ。数えきれねえ」
ザインも声を失っていた。
前世で軍に身を置いた事はある。だがこれほどの数の兵が一つの平原に集うのを見るのは、初めてだった。馬のいななき。武具の触れ合う音。号令の声。その全てが地鳴りのように重なり合い、大地を震わせている。
ザインの背を冷たいものが伝った。
これだけの兵が明日には、王国の大軍とぶつかる。何千という命がこの平原のほんの数刻のうちに散っていく。
その規模の前では自分が積み上げてきた「誰も死なせない」という誓いがひどく小さく無力に思えた。
隘路で殿を救った。伏兵を欺いた。井戸の毒を見抜き、兵を飢えから守った。その一つ一つは確かに人を生かしてきた。だがこの何万がぶつかる濁流の中では、一人の斥候の読みなど、波間の小石ほどの意味も持たないのかもしれない。
ザインは拳を握った。それでも、と思う。それでも自分にできるのは、目の前の七人を明日も生かすことだけだ。万の戦を動かせずとも、隣の一人は守れる。その一点を手放すわけにはいかなかった。
中隊は本軍の一翼に組み込まれた。
ザインたちの位置は左翼の、そのまた端。全軍から見れば、無数の駒のうちの一つに過ぎない。
誰もこの端の中隊に期待などしていない。手柄は中央の精鋭が立て、名は将たちが残す。左翼の端の徴募兵など、勝てば数に紛れ、負ければ真っ先に踏み潰される。そういう場所だった。
だがザインは知っていた。戦の崩れはいつも最も弱い端から始まるのだと。
ドレクが本陣の軍議から戻り、兵を集めた。
軍曹の顔はいつになく硬かった。
「明日、夜明けとともに会戦が始まる」
ドレクの声が低く響いた。
「王国の大軍は、すぐそこまで来ている。数はほぼ互角だ。だが向こうには名将ロウガがいる。油断すれば押し潰される」
兵たちの間に緊張が走った。
「俺たちの中隊は左翼の守りだ。派手な働きはない。だが左翼が崩れれば、本軍全体が崩れる。お前らの踏ん張りが、何万の兵の命運を握る。……心してかかれ」
兵たちが無言で頷いた。
ザインも頷いた。だがその胸の内ではいくつもの問いが渦巻いていた。
この大会戦で自分に何ができるのか。斥候の読みも地形の知恵も、何万の兵がぶつかる濁流の中で、果たして意味を持つのか。
夜、ザインは本軍の陣の片隅で平原を眺めた。
無数の篝火が平原を埋めている。それはまるで地に落ちた星空のようだった。だがその火の一つ一つが、明日には消えるかもしれない命だった。
火を囲んで兵たちが低く歌う声が風に乗って流れてくる。故郷の歌だろうか。明日を恐れる者の、震える声だろうか。その響きはどこか祈りのようでもあった。
これだけの人間がそれぞれに帰る場所を持ち、それぞれに明日を恐れている。その重なりが平原一面の低いざわめきとなっていた。
二つの月がその星空のような陣を蒼く照らしていた。
「明日が、初めての大会戦か」
ザインは誰にともなく呟いた。
隘路を読み、伏兵を躱し、兵を飢えから救ってきた。だがそれは全て、小さな戦だった。
明日、自分は初めて本物の戦争の渦の中に立つ。
その渦が自分の積み上げてきたものをどう試すのか。
ザインは槍を抱え、地に座った。眠れる気はしなかった。それでも体を休めるのも、生き延びる術だ。前世で、そう教わった。
平原のざわめきが、子守唄のように低く続いている。
ザインにはまだ、想像もつかなかった。




