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第21話 糧の底

 川を越えて二日。中隊はラーゲン平原を目指して進み続けた。


 だが行軍が長引くにつれ、別の敵が静かに兵を蝕み始めた。


 飢えだった。


 渡河の折に糧を積んだ荷馬車が一台、川に流された。その分だけ隊全体の糧が目減りしていた。


 兵糧は戦の華やかさの裏に、いつも隠れている。誰も語らず、誰も讃えない。だがそれが尽きた時、軍はあっけなく崩れる。剣を交える前に、腹を空かせた兵から逃げ、倒れ、散っていく。戦の勝敗を分けるのは、最後はいつも兵站だ。前世でそう繰り返し聞かされた。


「あと二日ぶんもありません」


 糧を預かる兵がザインに耳打ちした。ザインは斥候の長として補給の見積もりも任されていた。


「本隊に合流すれば補給は受けられる。だが合流まで、まだ二日はかかる」


 ザインは頭の中で計算した。


 三日かかる道を、二日ぶんの糧で行く。単純に足りない。兵が飢えれば足は鈍り、判断も濁る。最悪、行軍そのものが止まる。


 ザインは地図を検めた。道沿いにいくつかの集落がある。そこへ行けば食料はある。だが――。


「略奪はしない」


 ザインは自分に言い聞かせるように口に出した。


「飢えた兵に村を襲わせれば、糧は手に入る。だがそれをやれば、俺たちはただの野盗だ。守るべき民を食い物にする軍に勝つ意味はない」


 ガロが難しい顔をした。


「だが兵が飢えちゃ、戦どころじゃねえ。きれいごとで腹は膨れねえぞ」


「だから奪うんじゃない。買うんだ」


 ザインは答えた。


「中隊にはわずかだが軍資の銀がある。逃げ残った村があれば、銀を払って糧を分けてもらう。正当な取引なら村も応じる。後々、帝国軍が通る道に恨みを残さずに済む」


 それはただの善意ではなかった。


 占領地の民を敵に回せば、補給線は常に脅かされる。逆に銀を払い、筋を通せば、その地は帝国軍を拒まなくなる。情けは戦略でもあった。


 奪えば、その場の腹は満ちる。だが奪われた村は二度と帝国軍に背を向ける。井戸に毒を入れ、糧を隠し、敵に道を教える。一度の略奪が、後に続く何百の兵の喉元に刃となって返ってくる。だから飢えていても奪わない。それは潔癖ではなく計算だった。


 ザインはドレクに策を進言した。軍曹はしばし考え、頷いた。


「お前の言う通りだ。略奪は目先の腹を満たすが、後で必ず牙になって返ってくる。銀で買え。だが足元を見られて、吹っかけられるなよ」


「そこは抜かりなく」


 ザインは斥候隊を率いて、道沿いの集落を回った。


 多くは無人だった。だが一つの村に、逃げ遅れた老人たちが残っていた。


 ザインは武器を兵に預け、丸腰で村へ入った。怯える老人たちに銀貨を見せ、頭を下げる。


「帝国軍だ。村を荒らすつもりはない。糧を銀で分けてほしい。麦でも芋でも、余っている分でいい」


 老人たちは最初、信じなかった。兵が銀を払うなど。だがザインが一切手を出さず、辛抱強く頭を下げ続けるうちにその目から怯えが薄れていった。


 兵が来れば、奪われ、焼かれ、殺される。それがこの大陸の民の知る戦の姿だ。だから銀を差し出す兵など、信じられるはずもなかった。何か裏があるのではないか。老人たちの目はそう問うていた。


 ザインは急がなかった。武器を遠ざけ、ただ静かに待つ。怯える者を急かせば、心は余計に閉じる。時をかけて、害意のないことを態度で示すしかなかった。


 やがて村の長老が、しわがれた声で言った。


「……兵が銀を払うのを、初めて見た。蔵の麦を分けてやろう」


 ザインは深く頭を下げた。


 二つの月が夕暮れの空に昇り始めていた。


 わずかな麦を背負い村を後にする時、ザインは振り返った。


 老人たちが村の入り口に立ち、こちらを見送っていた。敵国の兵を、敵としてではなく見送っていた。


 麦の重みが、背に食い込む。重い。だがその重さが、明日の兵の一歩になる。ザインはそう思いながら、夕暮れの道を歩いた。


 道の先には、まだ二日の行軍が残っている。だが兵の腹は、今日を越せる。ザインは前を向いた。一歩、また一歩と、平原への道を踏みしめていく。


 兵を飢えさせず、民を敵にせず。地味で誰も讃えない働きだ。それでも、その一袋の麦が明日の兵の足を支える。そしてこの村の好意が、いつか帝国軍の補給線を静かに守るのだと、ザインは知っていた。

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