第20話 古参の手
バルガは泥と血にまみれていた。
だが傷は浅かった。腕に一筋、刃が掠めた跡があるだけだ。
「……心配かけたか」
バルガは窪地に身を滑り込ませ、荒い息を吐いた。
「追っ手を、二人ばかり片付けて、沢沿いに回り込んだ。お前の言った通り、密生した森じゃ、馬は使い物にならん。助かったよ」
ザインはその言葉にわずかに頬を緩めた。
自分の読んだ地形がバルガの帰還を支えた。判断が人を生かした。その手応えが疲れ切った体に、温かく沁みた。
森の地形を密生した木々の場所を、あらかじめ頭に入れておいたこと。それがティムを運ぶ逃げ道になり、バルガの回り込む道にもなった。たった半日前に沢を探った、その時の記憶が今、二人の命を支えていた。
備えとはこういうものだ、とザインは思った。役に立つかどうか分からぬまま、ただ見て、覚えておく。その地味な積み重ねだけが、いざという時に人と人とを生かして繋ぐ。
「あんたが、しんがりを引き受けてくれたから、こいつを運べた」
ザインは足を捻った若い兵を見やった。
「礼を言う。あんたがいなければ、こいつは死んでた」
バルガはばつが悪そうに視線を逸らした。
「……古参が新兵を庇うのは、当たり前だ。礼を言われるような事じゃない」
それからバルガはザインを正面から見た。十年の戦場を生きた目がまっすぐにザインを捉える。
「だが、お前の囮の策は、見事だった。六人で、伏兵を釣って、本隊を逃がした。一人も死なせずに、な。……正直、長としての器は侮っていた。済まなかった」
古参の男が頭を下げた。
ザインは首を振った。
「俺一人の策じゃない。あんたが渡河の知恵をくれた。マルトが目を配った。ガロが、こいつを一緒に運んだ。皆がいたから、誰も死なずに済んだ」
それは謙遜ではなかった。実際、誰か一人が欠けても今日の生還はなかった。読みは自分にしかできない。だがその読みを形にするのは、隊の一人一人の手と足だった。指揮官とは皆の力を一つの方向へ束ねる結び目に過ぎない。
それは本心だった。
地形を読むのは自分だ。だがその読みを形にするのは、隊の一人一人だった。誰が欠けても今日の生還はなかった。
バルガはしばらくザインを見つめていた。
やがてその口元に不器用な笑みが浮かんだ。
「……お前は、いい指揮官になる。十年見てきた俺が言うんだ。間違いない」
それからバルガは若い兵たちにも聞こえるように、声を張った。
「いいか、お前ら。この男の言う事を聞け。こいつの目は、本物だ。こいつについていけば、お前らは、生きて帰れる」
若い兵たちが頷いた。その目にザインへの信頼が、はっきりと宿っていた。
ザインは胸の奥が熱くなるのを感じた。
前世では命じられた任務をこなすだけだった。誰かに心から信じられた事など、なかった。だが今、目の前の男たちは自分の判断に命を預けている。
その重さは恐ろしい。だが同時に何ものにも代え難いものだった。
頭数の一人として死んでいくはずだった徴募兵が、名を呼ばれ、信を寄せられている。前世の自分がついぞ手にできなかったものだった。命じられるままに動き、誰の記憶にも残らず消えていく――そういう生き方しか、知らなかった。だがこの世界では違った。
森を抜け、上流の浅瀬を渡ると、対岸で本隊が待っていた。
ドレクがザインたちを出迎えた。
軍曹は七人全員が揃っているのを見て、太い眉を上げた。
「……一人も、欠けていないな」
「全員、生きて戻りました」
ザインが報告するとドレクは、深く頷いた。
「囮の煙を見た時は、肝が冷えた。だが、お前は、やってのけた。中隊を、伏兵から丸ごと救ったのだ」
軍曹はザインの肩を太い手で叩いた。その手の重みに労いと、確かな信頼が籠もっていた。
「お前を、俺の目に据えたのは、間違いではなかったな」
ドレクは低くそう言って、口の端をわずかに緩めた。叩き上げの軍曹がめったに見せない表情だった。
空には二つの月が昼の光に滲んで浮かんでいた。
川を越えた。伏兵を躱した。斥候隊は固い絆で結ばれた。
だがラーゲン平原はまだ先だった。そしてその平原では王国の大軍と帝国の本軍が、今、雌雄を決しようとしている。
ザインは静かに息を吐いた。読みは人を生かすためにある。その手応えがまた一つ胸に積もった。
ザインたちはその渦の、ただ中へ向かっていた。




