第19話 森を駆ける
ザインは倒れた兵へ駆け戻った。
敵騎兵が馬上から槍を振り下ろそうとしている。間に合わない。だが止めねば、若い兵は死ぬ。
ザインは走りながら槍を投げた。
武勇では敵わない。正面から斬り結べば、馬上の敵に徒歩のこちらは分が悪い。ならば力ではなく、機を狙うしかなかった。
投げ槍は騎兵の狙いを逸らすためのものだった。馬の脚元を掠めた槍に、馬が驚いて棹立ちになる。その一瞬の隙にザインは倒れた兵を引き起こし、転がった己の槍を拾い上げた。
馬という獣の、気の弱さを突いた。鍛えられた軍馬でも脚元を脅かされれば、本能で身を竦める。人を相手にするより、獣の習性を読む方が確かだった。
「立て! 走れるか!」
「あ、足が……」
若い兵の足首が捻れていた。走れない。
ザインは迷わなかった。兵の腕を肩に回し、引きずるように走り出した。重い。背後から、敵の足音が迫る。
その時、横合いから影が躍り出た。
バルガだった。古参の男は馬を立て直そうとする騎兵に肉薄し、その脚を槍で薙いだ。落馬した敵を地で押さえ込む。
「先に行け! 俺が食い止める!」
「一人で残すな!」
ザインが叫び返すと、バルガは森の奥を顎で示した。
「俺は十年、生き延びてきた男だ。お前らより、逃げ足は知っている。さっさと行け!」
ザインは歯を食いしばった。だがここで言い争えば、全員が死ぬ。
「すぐ追ってこい! 死ぬなよ、バルガ!」
ザインは若い兵を引きずり、森の奥へ駆けた。
ガロが横に並び、兵のもう片方の腕を担いだ。二人がかりで若い兵を運ぶ。木々の間を縫い、沢を飛び越え、敵の追跡を振り切っていく。
ザインは走りながら、頭の中で森の地形を組み立てていた。
昨日、沢を探った時に見た森の形。どこに窪地があり、どこに茂みが深いか。その記憶が今、逃げ道を描き出す。
「こっちだ! 茂みの濃い方へ!」
ザインは追っ手の馬が入れない、枝の密な方角へ皆を導いた。
馬は密生した木々の中では速さを失う。徒歩のこちらの方が有利になる。地形を読む者だけが知る、逃走の理だった。
息が上がっていた。ティムを担ぐ腕が鉛のように重い。それでもザインは足を止めなかった。止まれば、追いつかれる。追いつかれれば、終わりだ。木の根に足を取られそうになりながら、枝が頬を打つのも構わず、ただ前へ、密い方へと駆けた。
背後から、馬のいななきと、苛立った怒号が追ってくる。だがその声は木々に阻まれ、少しずつ角度を失っていった。敵はこちらを見失いかけている。
やがて背後の足音が遠ざかっていった。
追っ手は密生した森の中で、こちらを見失ったのだ。
ザインたちは深い窪地に身を伏せ、息を殺した。
しばらくして、馬蹄の音が完全に消えた。森に鳥の声が戻ってくる。
「……振り切った」
ザインは長い息を吐いた。
全身が汗まみれで腕は若い兵を担いだまま、痺れて感覚がなかった。
だがバルガがいなかった。
ザインの胸を冷たい不安が締めつけた。あの古参を囮の囮として残してきた。もし戻ってこなければ――。
「ザイン」
ガロが肩に手を置いた。
「あいつは、戻る。十年生き延びた男だ。お前が信じてやれ」
ザインは頷くしかなかった。
二つの月が梢の隙間から、蒼く窪地を照らしていた。
待つ、という事の重さをザインは初めて、自分の身で味わっていた。判断を下す者はその判断で誰かを危地に置く。そしてその者の生還を、ただ祈って待つしかない。
バルガにしんがりを任せたのは、自分だ。あの古参が戻らなければ、それは自分の命令が一人を死なせたという事になる。ティムを救うために別の一人を危地に置いた。その秤の重さが今、ザインの肩にずしりとのし掛かっていた。
指揮とはこういうものなのか。誰かを生かすために誰かを賭ける。その繰り返しの上に隊は立っている。ザインは唇を噛んだ。
半刻が永遠のように長かった。
その時、茂みががさりと揺れた。
ザインは槍を構えた。
草を分けて現れたのは――泥にまみれ、肩で息をする、バルガだった。
その泥まみれの顔を見た瞬間、ザインの喉から、声にならない音が漏れた。誰も欠けなかった。囮の六人が、皆生きている。
その安堵が、足の力を奪った。ザインはその場に膝をつきそうになるのを、辛うじて堪えた。
ザインは構えていた槍を、ゆっくりと下ろした。詰めていた息が長く漏れる。全身から、力が抜けていくのが分かった。




