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第18話 囮

 ザインたちは渡しの手前に陣取った。


 まず火を焚いた。一つではない。間を空けて、いくつも。煙がいかにも大軍の野営のように、川岸に立ち上る。


 そして声を上げた。


「隊列を組め!」「荷を先に渡せ!」「急げ、夜明けまでに渡り切るぞ!」


 六人が川岸を走り回りながら、何十人もの号令を装った。岸の灌木を揺らし、馬がいるかのように地を蹴る。木を打ち合わせて、武具の音を立てる。


 声色を変え、あちこちから号令を飛ばした。一人が二役も三役も演じる。低い声、甲高い声、苛立った怒鳴り声。それらが折り重なって、いかにも大勢の兵が渡河の支度にざわめいているように響いた。


 火の煙が朝靄に紛れて、川面を這う。その白さが対岸からは大軍の野営の煙に見えるはずだった。視覚と、聴覚と。敵の五感を丸ごと欺きにかかる。


 ザインは対岸の丘を絶えず窺っていた。


 伏兵が動くか。餌に食いつくか。


 やがて対岸の灌木がわずかに動いた。


 息を潜めていた敵が渡しの喧騒に気を取られ、身を乗り出してくる気配があった。中隊が渡り始めるのを今か今かと待っている。


「……食いついた」


 ザインは低く呟いた。


 同じ頃、上流では本隊が静かに浅瀬を渡り始めているはずだった。ザインたちが敵を釘付けにしている、その隙に。


 時を稼がねばならなかった。


 ザインは囮の芝居を続けさせた。火を足し、声を張り上げ、いかにも今から大軍が渡るように見せかける。だが決して渡しには踏み込ませない。敵が痺れを切らして攻めてくる、その一線の手前で踏みとどまる。


 綱渡りだった。


 長く引きつければ、上流の本隊は安全に渡れる。だが引きつけすぎれば、伏兵は痺れを切らして川を渡り、こちらへ攻めてくる。


 その均衡をザインは肌で測っていた。


 対岸の敵の、息遣いまで読もうとした。灌木の揺れ方。様子を窺う影の動き。焦れ始めているか、まだ待つ気でいるか。その機微を丘ひとつ隔てた距離から、感じ取ろうとする。指揮とは結局のところ、相手の心を読むことだった。鉄や槍ではなく、人の心を。


 半刻が過ぎた。一刻が過ぎた。


 額に汗が滲む。喉がからからに渇いていた。


 芝居を続ける六人の声も次第に嗄れてきていた。だが緩めるわけにはいかない。少しでも勢いが落ちれば、敵は不審に思う。ザインは皆に身振りで合図を送り、火を足させ、声を絶やさせなかった。


 時を稼ぐ。ただそれだけのために全身の神経を擦り減らしていく。上流の本隊が今どこまで渡ったのか。ここからは見えない。見えないものを信じて、ひたすら敵を引きつけ続けるしかなかった。その盲目の辛抱が何より、ザインの心を磨り減らした。


 その時、対岸で変化があった。


 灌木の陰から、騎兵が一騎、ぬっと姿を現したのだ。様子を探るためか、痺れを切らしたのか。馬上の敵がこちらの岸をじっと見据えている。


 見つかる。囮だと、気づかれる。


「煙はまだか」


 ザインは囁いた。上流の空を見張っていたマルトが、首を振る。約束の合図はまだ上がらない。


 ザインは対岸の騎兵から目を離さなかった。


 騎兵が後ろを振り返り、何かを叫んだ。伏兵に攻撃を命じる声だった。灌木の陰から、次々と兵が立ち上がる。


 囮が見破られた。


「退くぞ!」


 ザインが叫んだ、その時だった。


 上流の方角に白い煙が一筋立ち上った。


 本隊が渡り切った合図だった。


 ザインの胸を安堵が貫いた。間に合った。何百の兵は川を渡り、伏兵の刃の届かぬ場所へ抜けた。


 張り詰めていたものが一瞬、緩む。だがそれはほんの一瞬だった。


 だが安堵に浸る暇はなかった。対岸の敵が川へなだれ込んでくる。


「全員、森へ! 散らばって逃げろ、固まるな!」


 六人は火と煙を捨て、森へ駆け込んだ。


 背後で水を蹴立てる音と、怒号が追ってくる。


 ザインは走りながら、頭の隅で数えていた。ガロ、マルト、バルガ、若い兵たち。皆、いるか。


 その時、後方で短い悲鳴が上がった。


 ザインは振り返った。


 若い兵の一人が足を縺れさせ、地に転がっていた。追いついた敵騎兵がその背に槍を構えている。


 二つの月が白い空に滲んでいた。


 助けに入れば、自分も狙われる。頭ではそう分かっていた。だが足は止まらなかった。誰も置いていかない。それがザインの決めた一線だった。


 ザインの足は考えるより先に、その兵の方へ向かっていた。

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