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第17話 渡しの罠

 夜明け前、ザインは斥候隊を率いて、先に渡しへ向かった。


 中隊が渡る前に対岸を検める。それが昨夜決めた手順だった。


 川は思ったより広かった。


 夜明け前の薄闇の中、水面が鈍く光っていた。流れは低く唸るような音を立てて、絶え間なく動いている。岸辺の砂利が足元で湿って沈んだ。冷たい水の匂いが靄とともに立ち上っていた。


 浅瀬を選んで作られた渡しは、流れが緩い。だが川幅があるぶん、渡り切るには時がかかる。その間、隊は無防備になる。


 ザインは水際に膝をつき、流れに手を入れた。水は思ったより冷たく、そして速かった。腰まで浸かれば、足を取られる兵も出るだろう。荷を負った者ならなおさらだ。渡河の一つ一つが危うさを孕んでいた。


 ザインは対岸の様子を草の陰から窺った。


 対岸はなだらかな丘になっていた。低い灌木がまばらに茂っている。一見、何もない。


 だがザインの目はその灌木の不自然さを捉えた。


 ――枝の折れ方がおかしい。


 風で折れた枝なら向きはばらばらになる。だがその灌木の枝はある一方向だけに不自然に倒されていた。何かがそこを通った跡だ。それも隠そうとした跡だった。


 ザインは目を細め、丘の稜線を一寸ずつ舐めるように検めた。


 灌木の影が濃すぎる場所がある。朝の光が斜めに差し込むと、本来そこにあるべきでない影が、地に落ちる。伏せた人間の体が灌木の陰にわずかな膨らみを作っていた。一度気づけば、それははっきりと見えた。十、二十――いや、もっといる。


「……伏兵だ」


 ザインは声を殺して言った。


「対岸の丘に、敵が伏せている。中隊が川の半ばまで来たところで、横から討つつもりだ」


 ガロが息を呑んだ。


「読み通り、来やがったか」


 ザインは頭を高速で回転させた。


 このまま中隊を渡せば、川の中で討たれる。だが渡しを変える時はない。ならば伏兵をこちらが先に動く。


「渡河は待て。まず、それを軍曹に伝えろ」


 ザインは足の軽い若い兵を一人、中隊へ走り戻らせた。それから地図を素早く検めた。


「川を、半刻ほど上流に行った所に、もう一つ浅瀬がある。狭いが、渡れる。本隊は、そっちを渡る。渡り切ったら白い煙を一筋上げる手筈だ。だが、それだけじゃ足りない」


 ザインの目が鋭く光った。


「伏兵は、渡しを見張っている。本隊が来ないと知れば、いずれ気づいて動く。だから、囮がいる。渡しに、いかにも中隊が来るように見せかける。その隙に、本隊は上流を渡る」


「囮は、誰がやる」


「俺たち斥候隊だ」


 ザインは即座に答えた。


「六人で、何百の足音を装う。火を焚き、声を上げ、いかにも大軍が渡る支度をしているように見せる。敵が渡しに気を取られている間に、本隊を上流から逃がす」


 危うい策だった。六人で伏兵の注意を引きつける。気づかれれば、六人は皆殺しだ。


 だがほかに手はなかった。正面から渡れば、中隊が川で討たれる。引き返せば、ラーゲン平原への合流が遅れ、本軍が数を欠いたまま会戦に臨むことになる。どちらも選べない。ならば危うくとも敵の目を欺くしかなかった。


 ザインの頭の中で策の一つ一つが組み上がっていく。囮の位置。退く道。本隊を渡す刻限。全てが噛み合えば、誰も死なずに済む。一つでも狂えば、六人が消える。その細い綱の上を渡るしかなかった。


「正気か」


 バルガが低く言った。


「六人で、伏兵を釣るだと。一つ間違えば、俺たちが串刺しだぞ」


「だから、深入りはしない」


 ザインは冷静に返した。


「音と、煙だけだ。姿は見せない。敵が動こうとした瞬間に、俺たちは退く。本隊さえ渡れば、伏兵は獲物を失う」


 ザインは一同を見回した。


「これは命令だが、無理は言わない。残りたい者は、本隊と上流へ行け。俺は、残る」


 しばしの沈黙の後、ガロがにやりと笑った。


「馬鹿言え。お前一人にいい格好させるかよ」


 その言葉にザインは胸の奥が締めつけられるのを感じた。命を懸ける策に誰一人、背を向けなかった。それはこの数日で積み上げてきた何かが、確かに実を結んでいる証だった。


 マルトも若い兵たちも頷いた。


 そしてバルガがふんと鼻を鳴らした。


「……十年やってきて、新兵の囮役か。だが、悪くない策だ。乗ってやる」


 ザインは頷いた。


 二つの月は白み始めた空に、まだ蒼く残っていた。


 六人の囮が何百の命を川向こうの伏兵から引き剥がす。その綱渡りが今、始まろうとしていた。

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