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第16話 夜の備え

 ザインは斥候隊の一人を中隊へ走らせ、北の沢へ進路を変えるよう伝えた。


 翌日、中隊が森の縁に到着した。数百の兵が列をなして街道を逸れ、沢を目指す。


 ザインは森の入り口に立ち、その列を見守った。


 自分が読んだ道を何百という兵が辿っていく。その光景は奇妙な重みをもってザインの胸に迫った。判断ひとつがこれだけの命を動かしている。


 列は長かった。槍を担いだ歩兵が埃を巻き上げながら、黙々と歩く。荷馬車が軋み、軍馬が鼻を鳴らす。疲れ切った顔、顔、顔。その一つ一つが家に帰るべき人間だった。誰かの息子で誰かの夫で誰かの父親だった。


 その列の進む先を自分の目が決めている。ザインは改めて、その事の重さを噛みしめた。道を一つ読み違えれば、この長い列がまるごと敵の罠に呑まれる。背筋が冷たく粟立った。


 兵たちは沢で水を汲み、革袋を満たした。汚れた井戸を避け、綺麗な水を得たことを、誰も知らない。ただ喉を潤して、また歩き出すだけだった。


 知られなくてもいい、とザインは思った。


 兵が渇かずに済んだ。倒れずに済んだ。それで十分だった。功を誇るためではなく、ただ隣の人間を死なせないために、自分は道を読む。


 その夜、中隊は森の手前の窪地で野営した。


 篝火が焚かれ、兵たちが車座になって乾いた糧を齧る。疲れた笑い声があちこちで上がっていた。


 ザインは火から離れた場所で、地図を検めていた。


 篝火の灯りを頼りに墨の線を指でなぞる。明日辿る道筋を頭の中で幾度も歩いてみる。どこで隊が細くなり、どこで視界が閉じるか。危うい場所を一つずつ拾い上げていく。


 明日は渡しを越える。川を渡る、その一点が行軍で最も危うい。渡河の最中は隊が分断され、無防備になる。もし敵が待ち伏せていれば、川の中で討たれる。


 水に足を取られた兵は、満足に戦えない。半身が川の中にある時、人はただの的になる。前世の知識がその危うさを、冷たく告げていた。


「飯も食わず、何を睨んでいる」


 ガロが糧の塊を差し出しながら、隣に腰を下ろした。


「明日の渡しだ。あそこが、一番危ない」


 ザインは地図の一点を指した。


「川は隊を分ける。半分が渡った時、もう半分はまだ岸にいる。その時に襲われたら、両方とも死ぬ」


「お前、本当に休まないな」


 ガロが呆れたように言った。


「飯を食え。眠れる時に眠れ。それも、生き延びる術だろう」


 ザインは苦笑した。確かにその通りだった。


 糧を齧りながら、ザインは火を囲む兵たちを眺めた。


 その中にバルガがいた。古参の男は若い兵たちに、何かを話して聞かせている。野営地の張り方。火の隠し方。十年の戦場がその口から若い兵へと流れていく。


 ザインはふと思った。自分が読むのは地形と補給だ。だがバルガが持つのは、兵が兵として生きるための、もっと泥臭い知恵だ。どちらも欠ければ隊は死ぬ。


 火が低く爆ぜた。


 ザインは立ち上がって火に近づき、バルガの隣に腰を下ろした。


「明日の渡しのことだ。あんたの十年で、渡河の時に気をつける事を、教えてくれ」


 バルガは少し意外そうにザインを見た。それからゆっくりと語り始めた。


「渡る順だ。重い荷を持つ者を、先に渡すな。流れに足を取られる。軽い者を先に出して、対岸を固めさせる。それから――」


 ザインはその一言一言を、頭に刻んだ。


 渡る順。荷の振り分け。対岸を固める段取り。それは地図には書かれていない知恵だった。幾人もの兵が川で死に、その屍の上に積み上げられた、生きた者の知恵。本に記された戦術ではなく、戦場が刻んだ、生身の理だ。


 古参の知恵と、自分の読み。二つが噛み合えば、隊はもっと死ににくくなる。


 自分にできるのは地形と補給を読むことだ。だがそれだけでは兵は生き残れない。バルガのような者の積み重ねが、そこに加わって、初めて隊は形になる。ザインは自分の足りなさを、素直に認めることができた。それもまた、生き延びるための、一つの術だった。


 頭上で二つの月が窪地を蒼く照らしていた。


 火を囲む兵たちの影が、地に長く伸びている。その一人一人を明日も生かして対岸へ渡す。それがザインの仕事だった。


 だがザインの胸の奥には、消えない懸念があった。


 敵の斥候はすでにこちらの進路を嗅ぎつけている。渡しで何も起きないはずがなかった。

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