第2話 眠れぬ夜
砦に入った徴募兵達は、城壁の内側に張られた天幕へ家畜のように押し込められた。
ザインとガロの分隊が割り当てられたのは、十二人で使うには狭すぎる一張りだった。
古参兵が我が物顔で奥の乾いた場所を占めた。後から入った新兵は、ぬかるんだ入口近くで身を縮めるしかない。
空気は汗となめし革と、洗っていない人間の饐えた匂いで澱んでいた。
配られた夕食は薄い豆のスープと、石のように固い黒パンが一切れ。具らしい具もなく、底に潰れた豆がいくつか沈んでいるだけだ。
それでも明日をも知れぬ身には貴重な熱だった。
ザインはパンをスープに浸して柔らかくし、ゆっくりと噛んだ。食える時に食う。これも体に染み付いた習い性だった。
「明日、出るぞ」
分隊をまとめる古参兵が誰にともなく言った。痩せて、目つきだけが妙に鋭い男だ。名はバルガといった。
「西に半日。マレンという村に王国の先遣隊が入った。三十か四十か。そいつを叩き出すのが俺達中隊の役目だ」
バルガはザイン達を一瞥した。
「お前ら新兵は前列で槍を並べてりゃいい。余計な事は考えるな。指示があるまで動くな。下手に飛び出した奴から順番に死ぬ。それだけ覚えとけ」
ガロが唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。
隣を見ると、いつも軽口ばかり叩いている幼馴染の顔が、篝火の照り返しの中で強張って白くなっていた。
「……三十や四十なら、こっちの方が数は多いんだろ。なら楽勝じゃねぇか」
「数が多けりゃ勝てるなら、戦に苦労はねぇよ」
バルガが鼻で笑った。
「村に籠もった相手を追い出すのは、こっちが損をする戦だ。新兵を前に立てるのはそういう事だ。分かるな」
盾代わりという事だ。
ザインは黙ってその言葉を頭の隅に刻んだ。自分達は数のうちに入っていない。減ってもいい頭数としてここにいる。
前世の訓練でもそんな扱いは受けなかった。命の値段がここでは違う。
天幕の入口の幕が上がった。外の冷気と共に一人の兵が入って来る。
新兵ではない。だがこの荒くれた古参達とも、どこか気配が違った。
灰色の外套の下に痩せた肩。腰には剣ではなく短い杖を吊っている。
魔法使いだ。この大陸では稀少な、攻撃魔法の使い手。
コルネリアと呼ばれたその女は誰とも目を合わせなかった。空いた隅に音もなく座ると、膝を抱えて黙り込む。
古参兵達でさえ、彼女にだけは軽口を叩かなかった。
「……魔法使い様が、こんな最前線の天幕にかよ」
ガロが声を潜めて囁く。
普通、魔法使いは貴重な戦力として後方の本陣で大事に囲われるものだ。それが新兵と同じ薄汚れた天幕に押し込められている。
ザインはガロとは別の意味でその光景を見ていた。
それだけこの戦線の戦力が逼迫している。手駒が足りていない。貴重な札を最前線で使い潰さねばならないほどに。
この領はどこかで無理を重ねている。頭の片隅にまた一つ書き留めた。
夜半、ザインは眠れずに天幕を抜け出した。
城壁の上に登ると、冷えた夜気が頬を打った。
眼下では篝火がいくつも揺れ、見回りの兵の影が地面に長く伸びている。
西の地平に、昼間見た黒煙はもう見えない。代わりに二つの月が中天高く昇り、砦全体を蒼く照らしていた。
明日、自分は人を殺す。
名取真として三十一年。引き金を引く訓練だけは積んだ。標的を撃ち、点数をつけられる訓練は。
だが生きた人間の命をこの手で奪った事は、ただの一度もなかった。
その重さがどんなものか、まだ知らない。
槍の柄を握る指先がわずかに震えていた。寒さのせいだと思い込む事にした。
「……眠れないの」
声に振り向くと、城壁の端にあの魔法使いの女が立っていた。コルネリア。月明かりにその横顔だけが白く浮かんでいる。
彼女もまた眠れずにここへ来たらしかった。
「明日が、初めて?」
「ああ」
ザインが短く答えると、コルネリアは前を向いたまま、ぽつりと言葉を落とした。
「最初の一人は忘れられない。何年経っても、ふとした拍子に夢に出る。顔も声も、最期の目も」
彼女は一度言葉を切った。
「……でも、忘れられないって事は、まだ自分が人間だっていう証よ。慣れた顔をして平気で殺せるようになった連中ほど、もうどこか大事な所が先に死んでる」
それきり彼女は口を閉ざした。
慰めの言葉ではなかった。これから背負うものの重さを淡々と告げただけだ。
だが不思議と、ザインの胸を締め上げていた強張りがほんの少しだけ緩んだ。
怖いと感じるうちはまだまともなのだ。そう言われた気がした。
「……ありがとう」
ザインが言うと、コルネリアは初めてちらりとこちらに視線を向けた。何も言わず、また西の空へ目を戻す。
それでも拒まれてはいなかった。
東の空がわずかに白み始めていた。
砦の奥から出撃を告げる角笛の音が、低く長く響き渡る。腹の底にまで響く、戦の合図だった。
一夜は明けた。
ザインの初めての戦が始まろうとしていた。




