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第146話 餌に食らう

 夜明けの薄明かりの中、囮の荷駄が林の縁の道を行った。


 荷車は二台。御者は二人。ザインはその脇を、ただの護衛兵の顔で歩いた。コルネリアは荷の幌の陰に潜んだ。傷の癒えかけた肩に、低く撃つための構えを溜めていた。ガロは反対の脇で油断のない目を林へ配った。


 道は静まり返っていた。鳥の声もない。風が樫の梢を撫でる音だけが林から流れてきた。ザインはその静けさの異様さを読んだ。鳥が鳴かぬのは林に何かが潜んでいる証だった。狼は、もうそこにいた。


 ザインは歩みの速さも、背の張りも、いつもの護衛兵そのままに保った。狼の目がどこかからこちらを見ている。少しでも身構えれば、罠を悟られる。餌は餌らしく、無防備でなければならない。前線でも後方でも、ザインの戦は同じだった。敵に見せる顔と、胸の内の読みを切り離す。表は気の抜けた荷駄の護衛。裏では、林の物見の位置、風の向き、退き道の二本を、頭の中で何度も組み直していた。狼が飛び出す間合いを、ザインはすでに測り終えていた。あとは、狼がその間合いへ踏み込むのを待つだけだった。待つのも戦のうち。ザインは己へそう言い聞かせ、ひと足ずつ、餌の歩みを刻んだ。


「来るぞ」


 ザインは低く囁いた。声に出さず、唇だけを動かした。ガロが幌の陰へ目で合図を送った。


 次の刹那、林が爆ぜた。


 十騎が樫の闇から雪崩れ出た。先頭の若い騎手が灰色の外套を翻していた。灰狼のドゥランだった。馬上から弓を引き絞り、荷車めがけて火矢を放った。手慣れた迷いのない動きだった。荷を焼き、奪い、引く。いつもの狩りの手だった。


「焼け落ちる前に、引き上げろ!」


 ドゥランが叫んだ。若いが、よく通る声だった。騎手たちが荷車へ殺到した。


 その時だった。ドゥランがふと馬を止めた。


 炎の上がった荷車から糧の匂いがしなかった。立ち上る煙に、穀物の焦げる香りがなかった。代わりに焼けた石と砂の埃が舞った。ドゥランの目が鋭く細まった。


「……石だ。これは、囮だ! 退け! 罠だ!」


 ザインは舌を巻いた。半呼吸だった。荷に食いついて、その半呼吸で囮と見抜いた。並の狩人なら糧と信じて荷へ群がり、袋へ落ちていた。だがドゥランは匂い一つで罠を嗅ぎ分けた。林を長く生き延びた狼の鼻だった。読みの速さは、確かにロウガの放った刃にふさわしかった。


 ザインの胸に、嫌な予感と、わずかな高揚が同時に走った。手強い敵だった。だが手強い敵を相手にする時こそ、ザインの読みは冴えた。型通りの将を崩すより、体で覚えた知恵を持つ狼を出し抜く方が、よほど難しい。難しいからこそ、勝てば大きい。前線を追われ、帳面の上で数字と戦ってきた日々の鬱屈が、戦野の風に晒されて、少しずつ晴れていく気がした。ザインは戦う将だった。机の上ではなく、こうして泥と炎の間に立ってこそ、己だった。狼を狩る。誰も死なせずに。その一点へ、ザインは己の読みのすべてを注いだ。


「逃すな! 退き道を断て!」


 ザインも声を張った。同時にコルネリアが幌の陰から立ち上がった。傷の肩を庇いつつ低く焔を放った。炎の帯がドゥランの引こうとした正面の道を舐めた。馬が炎に怯んで棹立ちになった。


 だがドゥランは慌てなかった。炎の帯を一瞥し、即座に馬首を東へ転じた。


「東の谷筋だ! 走れ!」


 狼は二本ある退き道の片方を迷わず選んだ。ザインの読みでは、その先にバルガが待っていた。袋は半ば閉じていた。だが半ばだった。狼の引きがあまりに速かった。


 ザインは荷車の脇から、東へ駆ける灰色の外套を見据えた。読み合いは、まだ終わっていなかった。半呼吸で囮を見抜いた狼が、こちらの仕込んだ退き道の袋を、どう破ろうとするか。


「ガロ! 御者を頼む! 俺は東へ回る!」


「無茶すんな!」


 ガロの叫びが背に飛んだ。だがザインはもう走り出していた。狼が東の谷筋へ消える。その先で、バルガの待つ袋の口が、開いていた。


 頭上で、二つの月が白む空に薄く残っていた。大小ふたつの蒼い影が、餌に食らい、罠を嗅ぎ、なお駆ける狼と、それを追う将を静かに見下ろしていた。


 狩りは、まだ始まったばかりだった。半呼吸で罠を見抜く狼を、果たして袋に追い込めるか。読み比べはここからが本番だった。ザインは東へ、地を蹴った。

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