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第147話 読みの外

 東の谷筋で、バルガが待ち構えていた。


 古参の右腕は、谷の狭まる場所に伏せていた。狼が駆け込めば、そこで槍衾を立てて足を止める手筈だった。だがドゥランは、谷の入り口で馬を止めた。狭まる地形を一瞥し、伏兵の気配を読んだのだ。


「伏せがいる! 谷へ入るな!」


 ドゥランは叫び、馬首を返した。バルガの槍衾は、空を突いた。


 ザインは遅れて谷筋へ駆け込み、その光景を見た。背に冷たいものが走った。狼は伏兵の置かれた谷を入り口で見抜いた。匂いで囮を嗅ぎ、地形で伏せを読む。ドゥランの鼻と目はザインの仕込みを次々と暴いていた。読み合いは半歩ずつ狼に押されていた。


 ザインの胸を、苦いものがよぎった。これほど読みの鋭い敵は久しぶりだった。型を外しても崩れぬ。罠を仕掛けても嗅ぎ分ける。ロウガが己の片腕として放っただけのことはあった。立ち直る前の帝国の喉元へ、宿敵はよくよく研いだ刃を当ててきた。だがザインも、ただ押されるだけの将ではなかった。読みが半歩遅れるなら、その半歩を地形で取り戻す。狼の鼻と目をもってしても、山と斜面の形そのものは変えられない。地形は誰にも嘘をつかぬ盤だった。ザインはその盤の上で、もう一手を探した。狼がどこへ逃れようと、逃れた先の地形が次の関になる。読みでは半歩負けても、地形の網で取り返せる。ザインは斜面を駆けながら、頭の中で山の形を端から端まで辿り直した。


 ドゥランは谷を捨て、北の斜面へ馬を向けた。そこには、ザインの地図にない細い獣道があった。


「獣道だと……」


 ザインは舌打ちした。読みの外だった。マルトの偵察は二本の道を押さえた。だが狼は、地図に載らぬ三本目を知っていた。長く林に潜んだ狩人だけが知る、けものの通う細道だった。狼は、その道を一直線に駆け上がった。袋は、底が抜けていた。


「逃がすか」


 ザインは即座に頭を切り替えた。読みが外れた時こそ慌てれば負ける。狼が獣道を抜ければどこへ出るか。ザインは斜面の地形を見上げ、頭の中で道の先を辿った。獣道は北の尾根へ続く。だが尾根の手前で道は細く狭まる。岩がせり出し、馬の足では一列でしか抜けられない。そこが最後の関だった。


「コルネリア! 尾根の手前の岩場だ! 細道の出口を焼け!」


 幌から駆けてきたコルネリアが、斜面を見上げた。傷の肩がまだ痛んだ。だが彼女は唇を噛み、腕を肩より高く上げた。激痛が走った。それでも、撃った。


 焔が獣道の細まる出口めがけて飛んだ。岩場の枯れ草に火がつき、炎の壁がせり上がった。獣道を駆け上がった狼の先頭が炎の壁の前で棹立ちになった。一列でしか抜けられぬ細道で、先頭が止まれば後ろも詰まる。狼の群れが細道の中で団子になった。


「よし……読みの外でも、地形は嘘をつかん」


 ザインは低く笑った。地図にない道でも、その道がどこで狭まるかは、斜面の形が教えてくれた。狼は三本目の道を知っていた。だが、その道の出口の関までは、塞げなかった。獣道を抜けた先に、ザインはもう一枚、地形の網を掛けていた。


 だが、コルネリアが膝をついた。無理に肩を上げて撃った代償だった。傷口が開き、布に血が滲んでいた。


「コルネリア!」


 ザインは駆け寄り、その身を支えた。


「撃てた……でしょう。出口は、塞いだ」


 コルネリアが、青い顔で笑った。ザインは胸を締めつけられた。この女は、また己の身を削って退き道を断った。南の大敗と、同じだった。失いたくない。その思いが、喉元までせり上がった。


「もう撃つな。ここから先は、俺がやる」


 ザインはコルネリアを岩陰へそっと座らせた。その肩に己の外套をかけた。彼女の血の温もりが掌に伝わった。この一焔がなければ、狼は炎の関を抜けて消えていた。読みの外を塞いだのは、彼女の痛みだった。ザインはそれを忘れまいと胸に刻んだ。勝っても、彼女にこれ以上の傷を負わせては、再起の意味がない。誰も死なせず、誰も削らせず勝つ。それが本当の勝ちだと、ザインは改めて己へ言い聞かせた。だがまずは、目の前の狼を仕留めねばならなかった。炎の関の前で詰まった群れは、まだ十騎を保っていた。


 頭上で、二つの月が朝の空に薄く溶けていた。大小ふたつの蒼い影が、読みの外を地形で塞いだ将と、血を滲ませて笑う女を静かに見下ろしていた。


 狼は、炎の関の前で詰まっていた。底の抜けた袋を、ザインは地形でもう一度、縫い直した。狩りの、最後の関が迫っていた。

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