第142話 絞る手
数日後、本営から一通の指図書が届いた。
ボードの名で記された、糧の割り当ての見直しだった。南の前線へ送る分を、これまでの七分に減らせという。理由は「敗戦後の備蓄の立て直し」と書かれていた。もっともらしい文言だった。だが、ザインの目はその裏を読んだ。
ザインは指図書を卓に置き、クレスの集めた控えと並べた。
「立て直しのためなら、どこの前線も等しく減らすはずだ。だが減らされるのは、南の一線だけだ。しかも、その一線は」
「ガレウス将軍の管轄」
クレスが、低く継いだ。
「ボードは、糧を口実にガレウス将軍の足元を削っている。前線が飢えれば、将軍の指揮が立ち行かなくなる。将軍が沈めば、その後ろ盾を頼るあなたも、また沈む」
ザインは指図書を指で叩いた。剣で斬れぬ敵のいつもの手だった。正面からは討たない。糧の数字を絞りじわじわと味方の足元を削る。腹を空かせた兵は戦えない。飢えた将は功を立てられない。あの大攻勢で前線の糧を細らせたのと同じ手だった。ボードは負けを認めていなかった。盤を捨て、また別の盤を後方の帳面の上に敷いていた。
ザインは指図書の文字を何度も読み返した。怒りはあった。だが怒りに任せて噛みつけば、相手の思う壺だった。後方の戦は速さで決まらない。じっくりと相手の手の理を読み、その理の綻びを突く戦だった。ボードは賢い。だが賢いがゆえに、すべてを数字と書類で固めようとする。書類で固めるということは、その書類の中に必ず矛盾を抱え込むということだった。完璧に見える盤ほど、一点を崩せば全体が崩れる。ザインは戦野で何度もそうやって大軍を破ってきた。机の上でも、理は同じだった。敵が数字で来るなら、こちらも数字で受けて立つ。そして数字は、家柄や立場では塗り潰せなかった。それがザインに残された、ただ一つの確かな武器だった。
「ガロ」
ザインは相棒を呼んだ。
「南の前線の備蓄は、今どれくらい保つ」
「マルトに走らせて聞いた。今のままなら、ぎりぎり十日。七分に減らされりゃ、五日で底をつく。あとは、木の根でも齧るしかねえな」
ガロの軽口に笑える者はいなかった。五日で底をつく。それは前線の兵が五日後には飢えて戦えなくなるということだった。敵がその隙を突けば、また南で兵が死ぬ。ティムを死なせた戦の繰り返しだった。ザインは胸の内でティムの形見の前立てに触れた気がした。同じ轍は、二度と踏まぬ。
ザインは立ち上がった。卓の上に、敵の罠と味方の窮地が、数字となって並んでいた。
「指図書には従う。だが、従い方を選ぶ」
カイルが訝しげに見た。
「従いながら、どう抗うのです」
「指図書は『送る量を七分に減らせ』と命じている。だが『どう運ぶか』までは縛っていない。減らすのは量だ。なら、減らした分を、運び方で取り戻す」
ザインは帳面を開いた。これまで、糧は決まった道を、決まった日に、まとめて運ばれていた。だが途中で抜かれ、現物が痩せていた。その抜きの分を潰せば、七分でも、実質は元の量に近づく。
「抜かれていた分を止める。途中の溜め場で消えていた糧を一粒残らず前線へ届ける。帳面の上は七分でも、現物は元のまま前線に着く。ボードの絞った手を、抜きを潰すことで空振りに変える」
ザインは帳面の一行を指で押さえた。これまで誰も口を出せなかった抜きだった。口を出した者は飛ばされた。だがザインはすでに飛ばされた身だった。失うものはもうなかった。閑職へ追いやったヴェイル派は、皮肉にも、もう失うもののない男をこの帳面の前に座らせていた。怖いものがない監視役ほど、抜きを暴く者として厄介な者はなかった。ボードはそれに気づいていなかった。
クレスが目を見開いた。
「……指図に逆らわず、抜きだけを断つ。それなら、ボードもあなたを咎められない。むしろ咎めれば、抜きの存在を、己で認めることになる」
「そうだ。あの男は、己の絞った手で、己の抜きを守れなくなる」
ザインは低く笑った。剣で斬れぬ敵を、数字の理で追い詰める。後方の戦は、戦野とは違う武器で戦う戦だった。だが理を読む目は、どちらの戦野でも同じだった。
頭上の高窓から、二つの月が昼の空に白く差していた。大小ふたつの蒼い影が、帳面の上で敵の手を読み解く将を静かに照らしていた。
ザインは抜きの跡を、数字の上で一つずつ潰し始めた。絞られた糧を、前線へ満たすために。




