第141話 癒える肩
溜め場の裏手に小さな川があった。
コルネリアはそこで、肩の傷を洗っていた。射抜かれた傷はようやく塞がりかけていた。だが腕はまだ思うように上がらなかった。攻撃魔法を扱うには腕の高さがいる。彼女は川面に向かって何度も腕を伸ばし、痛みに眉をひそめては、また伸ばした。戦野へ戻るための、地味な鍛え直しだった。
ザインは少し離れた岩に腰を下ろし、その姿を見ていた。川は浅く澄んでいた。前線では決して見られぬ穏やかさだった。砲声も血の臭いもない水の音の中で、傷ついた女が一人、戦野へ戻る道を黙々と削っていた。その姿は痛々しくも美しかった。彼女は魔法の才ゆえに幼い頃から軍に囲い込まれ、生きる意味を戦場にしか見出せずにいた女だった。だが今、その腕を上げようとする執念は、戦のためだけではなかった。ザインの隣に戻るための執念だった。ザインはそれを言葉にせずとも感じ取っていた。
「無理をするな。傷はまだ浅くない」
「無理をしないと、戻れない」
コルネリアは腕を下ろさず答えた。
「あの大敗で、わたしは退路を焼くのに魔法を使い切った。その隙に、射抜かれた。もしもっと早く撃てていたら……ティムを、死なせずに済んだかもしれない」
ザインは黙った。彼女もまた、ティムの死を己の咎として背負っていた。読み当てても救えなかったザインと同じ重さを、彼女は腕の痛みとして抱えていた。二人とも、あの退き口の左の角から、まだ帰ってきていなかった。
「お前のせいじゃない」
ザインは静かに言った。
「あれは俺の戦だった。お前は最後まで、退き道を守った。お前が焔を放たなければ、逃げ延びた何百も死んでいた。お前は、十分すぎるほど戦った」
コルネリアの腕が止まった。彼女はゆっくりとザインを振り返った。寡黙な彼女が、戦場でだけ饒舌になるのをザインは知っていた。だが今、戦場ではない静かな川辺で、彼女は珍しく長く言葉を継いだ。
「あなたは、いつもそう言う。みんなのせいじゃないと。誰かのせいじゃないと。……でも、あなた自身のことは、誰が、そう言ってあげるの」
ザインは答えに詰まった。コルネリアは濡れた手でザインの手に触れた。傷の癒えかけた腕を伸ばし、ザインの掌の上に己の掌を重ねた。
「あなたのせいでもない。だから、一人で背負わないで。隣にいる。傷が癒えたら、また隣で撃つ。今度は、もっと早く」
ザインは重ねられた掌の温もりを感じた。南の大敗で二人は互いを失いかけた。失いかけて初めて、その隣がどれほど己の半分であるかを知った。べたつく言葉はなかった。ただ手の重なりが戦友以上の何かをゆっくりと形にしていた。スローバーンの炎が、川辺の静けさの中で確かに温度を増していた。
「ああ。今度は、もっと早く撃ってくれ」
ザインは小さく笑った。久しぶりの笑みだった。コルネリアの硬い表情も、わずかに緩んだ。
その夜、ザインは隊を集めた。灯火の下に、ガロもバルガもマルトもカイルも、そして肩を吊ったコルネリアもいた。
「敗因が見えてきた。味方は己の大きさに溺れた。糧と退き道を軽んじた。なら俺たちは、その逆をいく。小さく速く、糧と地形を握って戦う。大軍に真似のできん戦い方を、ここで組み直す」
ザインは地面に小枝で図を描いた。寡兵で動く隊。先に糧と水の在処を押さえ、退き道を二本も三本も用意しておく隊。敵の大きさを利して、その大きさに溺れさせる隊。南で味方を呑んだ袋の口を、こちらが描く側に回る戦い方だった。
「俺たちは数で勝てん。だが数で勝てんからこそ、糧と道で勝つ。腹の満ちた小勢は、飢えた大勢に負けん。それを証してみせる」
マルトが無言で頷いた。足の速い斥候は、己の役がどれほど重くなるかを察していた。先に在処を押さえるには、誰より速く地を駆ける目がいる。カイルも背を伸ばした。貴族出身の副官は、もう将を侮ってはいなかった。
「それでこそお前だ」
バルガが太い腕を組んで頷いた。
「大きな旗の下で潰れるより、小さくても己の足で立つ方が、よっぽどいい」
頭上で、二つの月が夜空に並んでいた。大小ふたつの蒼い光が、癒えゆく肩の女と、再び立とうとする隊を静かに照らしていた。
ザインは灯火の中で、新しい戦い方の輪郭を描き始めた。再起の形が、少しずつ見え始めていた。




