第140話 帳面の戦
ザインは三日かけて、溜め場の帳面を読み込んだ。
糧の出入りを記した分厚い帳面だった。どこから何が運ばれ、どこへ何が送られたか。乾いた数字が、何枚にもわたって並んでいた。戦野の地形を読むように、ザインはその数字の連なりを読んだ。数字は嘘をつかない。嘘をつくのは、数字を書く人間だった。
卓の向かいでカイルが帳面を覗き込んだ。貴族出身の副官は、後方の作法にも通じていた。
「妙ですね。入りの量と、出の量が、合っている。帳面の上では、一粒も消えていない」
「ああ。だが袋の中身は、足りなかった」
ザインは荷札の控えを横に並べた。
「帳面では合う。だが現物は軽い。つまり、数えた者と、積んだ者が、別の数を見ている。書類の上の糧と、車に載った糧が、最初から違うんだ」
カイルが眉を寄せた。
「では、誰かが書類を整えながら、現物だけを抜いていると」
「そうだ。書類が綺麗すぎる。これは、抜き慣れた者の仕事だ」
ザインは帳面を指で辿った。前線にいた頃、糧はただ「届かぬもの」だった。なぜ届かぬのか戦野からは見えなかった。だが今その理由が数字の連なりとして手の中にあった。誰かが組織立って前線の糧を細らせていた。腹を空かせた兵は退き際を見失う。あの大敗の根の一本がこの帳面に伸びていた。ザインはようやくそれを掴んだ。敵は戦野だけにいたのではなかった。
ザインは帳面を読む手を止めなかった。夜が更けても灯火の下で数字を追い続けた。荷の入りと出。日付と量。運んだ者の名と通った道。ひとつひとつを書き写し、別の紙に並べ直した。戦野で地形を頭の中に描くのと同じだった。ばらばらの数字を地図のように組み上げれば、流れの歪みが浮かび上がる。どこで糧が痩せ、どこで帳尻だけが合わされるのか。読みの天才と呼ばれた目は、戦野を離れても鈍らなかった。むしろ机の上の数字は、戦野の霧より遥かに正直だった。嘘をつくのは数字ではなく、それを書いた人間の意図だけだった。ザインはその意図の輪郭を、夜ごと少しずつ削り出していった。
明け方、ガロが白湯を運んできた。
「寝てねえな。目が真っ赤だぞ」
「数字は逃げん。だが見落とせば、また兵が飢える。ティムの時のようにな」
ガロは何も言い返さなかった。ただ白湯の椀を卓の端へそっと置いた。古い相棒は、ザインがこの帳面に何を賭けているのかを察していた。戦野で槍を握れぬ今、ザインは数字を槍の代わりに握っていた。
翌日、思わぬ訪問者があった。文官クレスだった。痩せた身に書付の束を抱え、馬を飛ばしてきた。
「ザイン少尉。あなたが補給監視に回されたと聞いて、参りました」
「クレス。お前まで、こんな辺鄙な溜め場に」
「記録を整える役は、後方のどこへでも行けます。それに……」
クレスは声を落とした。
「この溜め場の糧の流れには、前から妙な点があった。私はそれを、ずっと気にしていました」
クレスは抱えた書付を卓に広げた。各地の溜め場の出入りを写した控えだった。クレスもまた、数字で戦う男だった。北の谷で見たままを記し、南の評定でヴェイル自身の命令書を掘り起こした、あの文官だった。剣は握れぬ。だが数字を読む目は、ザインの戦の読みと同じ鋭さを持っていた。二人は、別々の戦野で同じ武器を磨いてきた者同士だった。
「見てください。糧が細るのは、いつも、この溜め場を通る分だけです。そして、この溜め場を差配する権を握っているのは」
「ボードか」
ザインが低く言った。クレスが硬い顔で頷いた。
「ヴェイル派のボード。あの男が、前線への糧をここで絞っている。証はまだ。ですが、流れは、その一点を指しています」
ザインは目を細めた。任官試験で潰そうとし、北の谷で目付を送り込んできた、あの参謀だった。剣で斬れぬ敵が、今度は数字の影に潜んでいた。だが数字の影に潜むなら、数字で引きずり出せる。ザインの後方の戦は、戦野とは違う武器で戦う戦だった。そして相手は、ザインを埋もれさせるために送り込んだ閑職の場で、知らずに己の弱みを晒していた。
「クレス。手を貸してくれ。この帳面の綻びを、一つずつ数字で押さえる。剣でなく、数字で、あの男を裸にする」
「そのために来ました」
クレスが、痩せた背を伸ばした。
頭上の高窓から、二つの月が昼の空に白く差していた。大小ふたつの蒼い影が、帳面を挟んで向き合う将と文官を静かに照らしていた。
ザインは帳面に目を戻した。数字の戦が、静かに始まっていた。




