第131話 引いた後
退却は三日続いた。
南方軍は北へ北へと退いた。敵の追撃を振り切り、ようやく味方の砦の影が見えた頃、軍はもはや軍の形をしていなかった。攻め込んだ時に三軍団あった旗は過半が地に伏していた。糧車は捨てられ、傷兵は荷馬に積まれ、歩ける者も足を引きずっていた。
ザインの隊は辛うじて隊の体を保っていた。だが穴は大きかった。ティムが欠けた。若い兵が四人、沢で還らなかった。コルネリアは肩を射抜かれ、荷車の上で熱に浮かされていた。バルガもガロもカイルも満身創痍だった。
退く道々、ザインは隊の顔ぶれを何度も数えた。数えるたびに、ティムのいない列に目が留まった。これまで左の角にはいつもあの男がいた。声をかければ必ず据わった声が返ってきた。今は、返らない。当たり前のことが、当たり前でなくなる。それが死の重さだった。ザインは何度もいないはずの方へ顔を向けては、己の癖に苦く笑った。
ガロもバルガも口数が減っていた。普段なら軽口を叩くガロが黙々と槍を担いで歩いた。バルガは時折、ザインの背を見て何か言いかけては呑み込んだ。慰めの言葉が、まだ見つからないのだ。隊の誰もがティムの欠けた穴を、それぞれの胸に抱えて歩いていた。語らずとも、同じ痛みがそこにあった。
「……何万、死んだんだ」
ガロが砦の門をくぐりながら呟いた。誰も答えなかった。数えられる者はいなかった。ただ、軍の三割も戻れば上等だと、誰かが力なく言った。
砦に入っても、安息はなかった。負け戦の陣は重く沈んでいた。傷兵の呻きが絶えず、糧は乏しく、士気は地に落ちていた。生き残った将たちの顔には、敗北の影が貼りついていた。勝ち戦の陣には傷ついてもどこか張りがある。だが負け戦の陣には、それがない。誰もが目を伏せ、声を潜め、ただ次に来る咎の声に怯えていた。何万を死なせた責めを、いずれ誰かが負わされる。その予感が砦の空気を一段と重くしていた。
ザインは隊の生き残りを点呼した。一人ずつ名を呼ぶ。返事のない名が、いくつもあった。ティムの名を呼ぶ番が来た。ザインは口を開いた。だが、声が出なかった。
「……ティム」
ようやく絞り出した名に、返事はなかった。当たり前だった。それでも呼ばずにはいられなかった。渡しの森から共にいた男の名を、最後にもう一度。
点呼を終え、ザインは天幕で独りになった。卓に二つの形見を置いた。セドの木彫りの小鳥。ヨナの穂先の欠けた槍。そこへ、退き際にマルトが拾い上げたティムの遺品を加えた。ひしゃげた古い兜の前立てだった。三つ目だった。三人の若い兵を、この手で死なせた。
形見は小さな卓の上にひっそりと並んだ。木彫りの鳥は、コルネリアの血でまだうっすら染まっていた。欠けた槍は、ヨナがはじめて人を殺した夜の震えを覚えていた。そしてひしゃげた前立ては、ティムが新兵の頃から被り続けた古い兜のものだった。三つの品が三人の若者の生きた跡だった。みな、ザインを慕い、ザインの隣で死んだ。
ザインは長いこと、その三つを見つめていた。問いが胸の奥でぐるぐると回った。自分の読みは確かに罠を当てた。無謀だと進言した。それでも止められなかった。そして止められぬまま、ティムを死なせた。ならば読む力に何の意味があったのか。読めても救えぬなら、それはただ痛みを増やすだけの力ではないのか。一兵卒の頃は、自分の身一つを守れば済んだ。将になった今は、読み違えれば何百が死ぬ。読み当てても、なお人が死ぬ。その重みに、ザインは初めて潰されそうになっていた。
ザインは生まれて初めて、己の読みを呪った。これまで読みは、ザインの誇りだった。家名も武勇もない男が、ただ読む力一つで成り上がってきた。その力が今は、死なせた者の顔を一人ずつ突きつけてくる。当てたからこそ、止められなかった悔いが深い。何も読めぬ将なら、こうは苦しまなかったろう。ザインは形見の前で、長く動かなかった。次の一歩が、まだ見えなかった。
頭上で、天幕の隙間から二つの月が覗いていた。大小ふたつの蒼い光が、三つの形見を並べた卓と、その前に座す将を、冷たく照らしていた。
砦の外で、早馬の蹄が鳴った。後方本営からの使者だった。敗戦の責めを問う声が、もう動き出していた。ザインの戦は、戦野を退いた後も、終わっていなかった。




