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第130話 血の谷間

 ティムは、戻らなかった。


 ザインは沢の口で立ち尽くした。あの場へ駆け戻りたかった。だがそれをすれば、退き口は崩れ、逃げた何百もの味方が無に帰す。将は、動けなかった。動けぬことがこんなにも苦しいとは思わなかった。仲間が死地で討たれていくのを、ただ見送るしかなかった。


「隊長! 退くぞ! ここももう持たねえ!」


 バルガが血まみれの腕でザインの肩を掴んだ。ザインは引きずられるように沢へ滑り込んだ。胸の中で何かが千切れた音がした。


 沢を抜ける道もまた、地獄だった。退き遅れた味方が、追いすがる敵に狩られる。ザインは隊を束ね、退路の殿を保ちながら一人でも多くを東へ流した。コルネリアの焔が繰り返し追撃を退けた。だが彼女の杖を握る手は、もう震えていた。魔法の使い手とて、際限なく焔を吐けるわけではない。


 焔を一度放つたび、コルネリアの顔から血の気が引いた。額に脂汗が浮く。それでも彼女は杖を下ろさなかった。下ろせば、退く味方の背に矢が降る。ザインはその横顔を盗み見ながら、胸を締めつけられた。無理をするなと言いたかった。だが言えなかった。今ここで彼女の焔が止まれば、何十もの味方が討たれる。コルネリアはそれを知っていた。だから止めなかった。ザインも止められなかった。二人とも目の前の命を救うために、己を擦り減らすしかなかった。


 ティムの死が、まだ胸に刺さったままだった。だが嘆く間はなかった。立ち止まれば、生きている者まで死ぬ。ザインは悲しみを腹の底へ押し込め、ただ退路の差配に徹した。誰を先に流し、どこで殿を引き、いつ焔を放つか。冷たい計算だけが、まだ何十もの命を救えた。涙は戦が終わってからでいい。今はただ、一人でも多く生かす。それだけだった。


 退路の終わり際、敵の弓隊が沢の縁へ取りついた。矢が雨のように降った。退く味方の背に容赦なく突き刺さる。一人の若い兵が射られて倒れた。ザインの目の前だった。


「コルネリア、退路を覆え! あと一押しだ!」


 コルネリアが最後の力を振り絞って前へ出た。蒼い焔が弓隊の頭上で炸裂し、矢の雨を断ち切った。その一瞬、退く味方は沢を抜けた。だが焔を放った彼女自身が、無防備に縁へ晒された。横から放たれた一矢が、コルネリアの肩を貫いた。


「コルネリア!」


 ザインは血の気が引いた。コルネリアが膝をつく。肩から赤がにじむ。ザインは駆け寄り、彼女を抱えた。胸元の木彫りの小鳥が、血に濡れていた。セドの形見だった。彼女がいつも携え、妹へ届けると誓ったあの小さな鳥だった。その鳥が今、彼女自身の血に染まっていた。


 ザインの中で、何かが軋んだ。ティムを失ったばかりだった。その上、コルネリアまで。もしこの矢が肩でなく胸を貫いていたら。もしあと指一本ずれていたら。考えるだけで視界が暗くなった。ザインはこの数月、幾人もの死を見てきた。だがコルネリアを失う想像だけは、どうしても呑み込めなかった。この女がいない明日を、ザインは思い描けなかった。それを、ザインはこの瞬間に骨の髄まで思い知った。


「……平気よ。肩だけ。歩ける」


 コルネリアが歯を食いしばって言った。だが顔は蒼白だった。ザインは彼女を背に庇い、隊の最後尾で殿を引いた。歩ける、と彼女は言い張った。だが一歩ごとに肩が傾ぐ。ザインはその腰を支え、なお退路を読み続けた。片腕で女を抱え、片目で敵の追撃を測る。そんな退却だった。


 北の谷でも、この沢でも、二人は互いを守るために前へ出た。だから互いに、互いを失いかけた。前へ出るなと、どちらも言えない。前へ出る性分こそが、二人を結びつけたものだった。だがその性分が、いつか片方を奪う。ザインはその矛盾を、傷ついた彼女の重みと共に、背中で受け止めていた。


 日が落ちる頃、生き残りはようやく追撃を振り切った。荒野に出た味方の数は、攻め込んだ時の影も形もなかった。何万が、半日で潰えた。歩けるのは、その僅かだった。


 頭上で、二つの月が暮れた空に冷たく昇っていた。大小ふたつの蒼い光が、血の谷間を抜けてきた将と、その背の傷ついた女を静かに照らしていた。


 ザインはコルネリアを抱え、潰れた軍の列に加わった。生き延びた。だがティムは、もういない。これが大敗の、本当の重さだった。読みが当たっても、人は死ぬ。その事実だけが、冷たく胸に残った。

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