第129話 左の角
ティムが駆け戻った。
すでに沢の口へ滑り込みかけていた身を翻し、崩れかけた左の角へ。数人の若い兵を引き連れ、回り込んだ敵の騎兵の前へ立ちはだかった。
「戻るな、ティム!」
ザインは叫んだ。だが声は届かなかった。届いても、ティムは戻らなかっただろう。あの角が抜かれれば、沢に残る味方も、退く口番も、横から串刺しになる。誰かが塞がねばならなかった。そしてその場に最も近いのがティムだった。
ティムの槍が回り込んだ騎兵の先頭を突いた。馬が崩れ、敵の足が止まる。若い兵たちが続いて槍衾を作った。左の角が、辛うじて塞がった。その隙に沢の最後の味方が抜けていく。バルガたちの口番も、列の尾に続いて滑り込む。退き口は、保たれた。ティムが、保たせた。
ザインはその光景を沢の口から見ていた。胸の中で二つの思いが激しくせめぎ合った。一つは将としての読みだった。退き口は保たれた。味方は抜けた。任は果たされた。あとはティムが退けば、すべてが収まる。もう一つはもっと深い場所からの叫びだった。あの角はもう保たれている。ならばティムも退ける。退いてくれ。今すぐに。渡しの森から共にいた男をここで失うわけにはいかなかった。ザインは沢の縁へ身を乗り出した。声の限り、ティムの名を呼んだ。
ティムはまだ角にいた。退けるはずだった。敵の足は止まっている。退き口も開いている。だがティムは退かなかった。退けなかった。角の足元に、組み伏せられた味方が一人、まだ倒れていたからだった。
「ティム、もういい! 抜けろ! お前も来い!」
ザインは沢の口から手を伸ばした。あと少しだった。あと数歩ティムが退けば、間に合う。
ティムが振り向いた。土と血に汚れた顔で、いつものように笑った。初めての戦場で震えながら槍を握っていた若兵の顔が、そこにあった。あれから何度も死地をくぐり、左の角を任される中堅に育った。その男が最後にもう一度、ザインへ笑いかけた。
「隊長。隣の兵から、離れるな――でしたよね」
その言葉は、ザイン自身が隊に説いてきた掟だった。隣の兵を守れ。一人で離れて死ぬな。ティムはそれを守っていた。退きかけた仲間が一人、敵に組み伏せられていた。ティムはその一人を見捨てられなかった。掟を守って、戻った。守って、留まった。
敵の騎兵の第二波が、左の角へ殺到した。ティムの槍が一騎を、二騎を退ける。だが数が違った。若い兵が一人、また一人と倒れる。ティムは組み伏せられた仲間を引き起こし、沢の口へ突き飛ばした。その兵は転がるように退き口を抜けた。生きた。ティムが、生かした。
ザインは駆け出そうとした。あの角へ。ティムの元へ。だが足が止まった。今ここで将が死地へ飛び込めば、開いたばかりの退き口が崩れる。逃げ終えた何百もの味方が、再び敵の餌食になる。将は、動けなかった。動けば、もっと多くが死ぬ。ザインは沢の口で拳を血が出るほど握りしめた。仲間が目の前で討たれていく。それを見ているしかない。これほどの苦しみをザインは知らなかった。槍を握って戦う方がよほど楽だった。見ているだけというのは、地獄だった。
そして、ティムの背に、敵の槍が届いた。
「ティム――!」
ザインの絶叫が戦野を裂いた。コルネリアの焔が、ティムを討った騎兵を蒼く呑んだ。だが遅かった。ティムはゆっくりと膝をついた。なお振り向き、ザインの方を見て、口を動かした。声は届かなかった。だが、形は読めた。勝ってくれ、と。生きた者の分まで。
それはかつて、北辺の隘路で討たれた敵将ヴァレクが遺した言葉と同じだった。死んだ者の分まで勝て。武人の最期の言葉が、いまティムの口から、同じ形を結んでいた。ザインはこれまで何度も、その言葉を仲間から手渡されてきた。セドから。ヨナから。そして今、ティムから。手渡されるたびに、生きて勝つという荷が、ザインの背に重く積まれた。逃げることは許されなかった。彼らが己の命と引き換えに託したものを、放り出すわけにはいかなかった。
ティムが生かした最後の一人は、沢を転がり抜けて、味方の列に潜り込んだ。名も知らぬ若い兵だった。その一人が生きたことに、何の意味があるのか。今のザインには分からなかった。だがティムは、その一人を見捨てなかった。掟を守った。だからその一人が生きた。意味は、生き残った者が、これから作るしかなかった。
頭上で、二つの月が夕の空に白く冴え始めていた。大小ふたつの蒼い光が、左の角で崩れ落ちた中堅と、その名を叫ぶ将を、静かに照らしていた。
ティムが、倒れた。渡しの森から共に泥をくぐった男が、左の角で、息を引き取った。退き口は、保たれた。だがその代価は、あまりに重かった。




