第128話 退き口
東の沢へ、味方が流れ始めた。
崩れた軍団の兵が、ザインの開いた退き口に気づいてわれ先に殺到した。ザインは沢の入り口に立ち、声を張り続けた。順に流せば道は保つ。だが我先に押し合えば口で詰まり、詰まった所を敵に狩られる。
「押すな! 列を作れ! 前から順に抜けろ!」
ザインの声は嗄れていた。コルネリアの焔が退路の両脇に立ち、追いすがる騎兵を退けた。バルガとティムとカイルの口番隊が、沢の入り口の手前で槍衾を組み、敵の追撃を受け止めていた。彼らが一歩も退かぬから、口は開いていた。
戦野の喧騒はもはや音の塊だった。蹄、悲鳴、鉄の打ち合う響き、倒れる兵の呻き。すべてが混ざり合い、一つの低い唸りとなって戦野を覆っていた。その唸りの中でザインは己の声だけを頼りに流れを作った。声を失えば流れは乱れる。流れが乱れれば口で詰まる。だからザインは喉が裂けようと叫び続けた。順に抜けろ。押すな。前から行け。同じ言葉を何百回繰り返したか分からなかった。
逃げる兵の顔は、どれも土気色だった。槍を捨てた者、兜を失った者、血に染まった戦友を担ぐ者。勝ち戦のはずだった大攻勢が、半日で総崩れになっていた。ザインはその一人ひとりに退き口を指し示しながら、胸の底が冷えていくのを感じた。これは負けだった。ただの負けではない。何万の兵を呑んだ大敗だった。読んで、進言して、それでも止められなかった敗北だった。
逃げてくる兵に、ザインの顔を知る者はほとんどいなかった。他の軍団の兵だった。だがザインは構わず声を張り続けた。家名も部隊も問わなかった。生きて袋を出ろ。それだけを叫んだ。一人を東へ流すたび、一つの命が血の谷間から抜け出る。その手応えだけが、半日の大敗の中でザインに残された唯一の確かなものだった。負けは覆らない。だが救える命なら、まだ目の前にあった。
沢の口では、口番隊が踏ん張っていた。バルガの槍が新手を弾き、ティムの角が崩れを支え、カイルの一隊が横の備えを固めた。彼らが一歩も退かぬから、退き口は開いていた。ザインは流れを捌きながら、何度も口番の方を盗み見た。仲間が死地で踏ん張る間、己は逃げる味方を導く。その役の冷たさが、また胸を刺した。だが将は最も多くを生かす場所に立たねばならない。それが今は、口ではなく流れを差配する側だった。
「隊長! 口番が押されてる!」
マルトが叫んだ。ザインは振り向いた。バルガたちの槍衾に、敵の騎兵が次々に取りついていた。受けても受けても、新手が湧く。口番隊の足元には、すでに何人もの味方が倒れていた。
「あと少しだ。逃げる味方は、もう終いに近い。口番、引け! 逃げ込んだ列の最後尾に続け!」
ザインは退却の合図を出した。逃げる味方の流れが細り、尽きかけていた。口を閉じて、口番も沢へ滑り込む。そういう段取りだった。バルガたちが少しずつ後退を始めた。槍を引きながら、列を崩さず、じりじりと沢の口へ。
退き際こそ最も危うい間合いだった。背を見せれば討たれる。だが受け続ければ呑まれる。受けと退きをほんの半歩ずつ交ぜながら下がる。二度の死地をくぐった口番隊は、その呼吸を体で覚えていた。バルガが受け、ティムが退き、また受ける。一人が下がれば、隣の槍がその穴を埋めた。混沌の戦野で、その一角だけがなお人の意思で動いていた。ザインは沢の口からその後退を見守った。あと十数歩。あと十数歩で、口番も沢へ滑り込める。誰一人欠けずに、この袋を抜けられる。そう思った、その時だった。
だがその時、敵の騎兵の一隊が沢の左の縁へ回り込んだ。退き口の側面を断とうという動きだった。ここを抜かれれば、まだ沢に残る味方も、引き始めた口番も、横から串刺しにされる。
「左だ! 左の角が抜かれる!」
ティムの声が飛んだ。左の角――それはティムの持ち場だった。かつての若兵が、いつも任された場所。崩れかけた角を、誰かが塞がねばならなかった。
頭上で、二つの月が傾いた陽の傍らに白く浮いていた。大小ふたつの蒼い光が、辛うじて開いた退き口と、それを塞ごうとする敵の牙を、静かに照らしていた。
「左の角、俺が戻る!」
ティムの声が、戦塵の向こうから響いた。退き口の最後の一角が、いままさに裂けようとしていた。




