第127話 袋の底
戦野は混沌だった。
味方の旗がどこにあるのか、もう判じがたい。前後を断たれた軍団が思い思いの方へ逃げては騎兵に狩られる。号令はとうに途絶えていた。中央本隊の将旗が、丘の麓で立ち往生していた。ヴェイルの送り込んだ軍団長は、自ら描いた絵図の崩れに呑まれ、采を振るう術を失っていた。
「中央が動かねえ。あの旗、死んでる」
マルトが戻って報じた。中央が止まれば、味方は退き口を見いだせない。袋の底で揉まれ続けるだけだった。
ザインは戦野を読んだ。混沌の中に、それでも筋を探した。敵の騎兵は両翼から食い込んでいる。だが東の窪地――浅い沢が一本、戦野を斜めに切っている。そこは馬の足が鈍る。徒の兵なら抜けられる。あの沢を退き道にすれば、袋の底の味方を東へ流せる。
戦場の読みとは、絶望の中から一筋を拾う作業だった。誰の目にも詰みに見える盤でも、必ずどこかに細い目が残っている。ザインはそれを探すためにずっと地形を覚えてきた。山の襞、水の流れ、馬の足が鈍る土の柔らかさ。前世から持ち越した目が、混沌の戦野に一本の沢を見つけ出した。あの沢は浅く、底がぬかるんでいる。重い甲冑の騎兵は脚を取られる。徒歩の兵だけが抜けられる、細い命の道だった。
問題は、その道へどう味方を導くかだった。崩れた兵は恐慌に呑まれている。恐慌に呑まれた兵は、ただ群れて同じ方へ雪崩れる。雪崩れた先が崖でも止まれない。だから誰かが沢の口に立ち、声で流れを作らねばならなかった。退き道は開くだけでは足りない。開いた口を、味方が抜け終えるまで誰かが守り続けねばならなかった。
「東の沢だ」
ザインは隊へ向き直った。
「あそこは馬が入れん。あの沢筋を退き口にする。だが沢の入り口を、誰かが押さえておかねば、すぐ敵に塞がれる。口が開いている間だけ、味方は逃げられる」
「で、その口を、誰が押さえるんだ」
ガロが問うた。答えは皆、分かっていた。穂先のこの隊が最も口に近い。だから口番はこの隊の務めだった。
ザインは即断しなかった。口を押さえるとは、味方を逃がし終えるまでそこに残るということだった。残った者の退き際は、最も危うい。北の谷でバルガが、南でヨナが、その役を負った。誰を残すか。将の天秤が、また重く傾いた。
この天秤を握ることが、将の重みだった。一兵卒の頃は、自分の槍で自分の前だけを守ればよかった。だが将は違う。誰を死地に置き、誰を逃がすかを、己の一言で決める。ヨナを死なせたあの囲みの記憶が、まだ生々しく胸に残っていた。あの時も、口を塞ぐ殿が要った。あの時も、残れと命じはしなかった。兵が自ら残った。そして死んだ。ザインは、同じ秤をまた手にしていた。違うのは、今度は何百もの味方の命がその秤の片側に乗っていることだった。
「俺が口に立つ」
ザインは言った。
「馬鹿言え」
バルガが遮った。
「お前が死んだら、逃げた連中を誰が束ねる。口番は俺たち古手の役だ。お前は逃げる味方を東へ導け。それが将の仕事だ」
ザインは奥歯を噛んだ。バルガの言う通りだった。将は最後まで生きて生き残りを束ねねばならない。だが己が安全な場所へ退き、仲間を死地に置く。その重さは何度味わっても慣れなかった。慣れてはいけないとも思った。慣れた時、人は兵を駒として数え始める。ヴェイルのように。ザインは慣れぬ痛みを抱えたまま、口番を選ぶしかなかった。それが将であり続けるための、たった一つの戒めだった。
「すまん」
「謝るな。生きて、また飯を食う。それだけだ」
バルガが太い腕でザインの肩を叩いた。ティムが、カイルが、口番に名乗り出た。誰もが己の役を察し、声を上げる前に持ち場を決めていた。ザインは口番の隊を選び、残りで退き口の導きに回った。コルネリアの焔を退路に置き、迷う味方を東の沢へ流す段取りを組んだ。槍の数を数え、焔の届く間合いを測り、退く順を頭の中で並べる。混沌の只中でもザインの読みは一片の冷たさを保っていた。その冷たさだけが、今ここで何百の命を救える唯一の手立てだった。
頭上で、二つの月が昼の空に白く滲んでいた。大小ふたつの蒼い影が、底で足掻く大軍と、その底に細い退き道を引く将を、冷たく見下ろしていた。
「東へ流せ。一人でも多く、生きて袋を出ろ」
ザインの声が、混沌の戦野を貫いた。袋の底に、細い一筋の道が、ようやく開こうとしていた。




